福岡城内の足跡(表示石)を訪ねて(その3)~烽火番所跡~

福岡城の日々

烽火(のろし、ほうか)とは、昼は煙を、夜は火を焚いて離れた場所から確認をすることで情報を伝達する手段です。

663年白村江の戦いで百済の救済に失敗した大和朝廷は、唐・新羅の連合軍の侵入に備えて、664年に対馬、壱岐、筑紫国に、防人(さきもり)と烽(とぶひ)を配置し、水城(みずき)を築いたと『日本書紀』に書かれています。

その翌年には大宰府を防衛するために四王寺山に大野城を、基山に基肄(きい)城を築きました。

また、築城年は不明ですが、肥後北部にも大宰府の防衛を担う物資や食料の補給基地として鞠智(きくち)城が築かれました。

はたして、烽火はどれくらいの速さで伝わるのか?

2011年8月、古代山城サミット山鹿・菊池大会プレイベントで「烽火リレー」が行われました。

大宰府政庁跡で10:15に上げられた烽火は、大野城跡から基肄城跡へと続き、その後11カ所を経由して11:10に鞠智城にゴール! 90.2㎞の距離を約55分でつなぎました。

時速約100㎞! 高速道路なみのスピードだったんですね。

その烽火を見張る番所が福岡城内に一時期ありました。

1808年8月イギリスの軍艦フェートン号がオランダの国旗を揚げて国籍を偽り長崎港に入港。オランダ商館員を人質とし、その交換として水や食料、薪等を奪い取り立ち去るという事件が起きました。ペリー来航の45年前のことです。

この事件の後、長崎から小倉藩領まで烽火台が設置されました。

福岡藩では佐賀藩が揚げた朝日山の烽火を御笠郡の天山(あまやま)~四王寺山~しょうけ越え~龍王岳~六が岳~石峯山と繋ぎ、豊前小倉藩の霧が岳に伝えることになり、1809年1月にその実験に成功。10月にはこの6カ所への設置が完成と「黒田斉清譜」にあります。

そして、福岡城からは四王寺山の烽火を見張ることになりました。

「福岡城下町・博多・近隣古図(模本)」(九州大学付属図書館所蔵)を改変(矢印と〇印を追加)

さて、四王寺山から福岡城までは平野が広がり見通しは確保できたそうですが、城内のどこに見張り番所を置くかが問題だったそうです。

『福岡市史 』特別編「福岡城」によりますと、第1の候補は高櫓でしたが、すぐ東に位置する大音六左衛門の屋敷の木々を切らなければならず断念。

次に時打櫓が候補にあがりましたが、こちらも本丸広間の庭杉や、二の丸東部の杉・楠・松などを切らないと四王寺山は望めないうえに、時打ち(太鼓を打って時刻を知らせる役人)が見張りの番人を兼ねると時打ちの職務に支障がでる等の問題がありました。

一方、革櫓(かわやぐら)だと木々を切らなくても、かろうじて四王寺山が見通せることがわかり、そこに烽火の見張り番所を置くことで一件落着!

これが革櫓があったところに烽火番所跡の表示石が設置されている理由です。

場所は決まったものの、誤認による大騒動が起こったり、視界不良の日もあったりしたためか8年後の1816年には烽火の代わりに走り飛脚によって情報を伝達することになりました。

実は先程の「烽火リレー」も8月21日の予定でしたが、雨天により28日に延期されました。お天気に左右されるのは今も昔も変わりないですね。

まだまだ寒い日が続きますが、晴れた日には福岡城まで足を運ばれませんか?

梅の花とともにスタッフ一同お待ちしています。

 

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