平和台陸上競技場

福岡城の日々

 

2021年7月22日は二十四節気の大暑。暑さが最も厳しくなる頃となりました。

城内の木々は、緑が濃くなり青々と生い茂っています。また、お堀の水辺では蓮の花が咲いています。蓮の開花は早朝から、お昼過ぎには閉じてしまうので、少し早起きして散策されてみてはいかがでしょうか。

 

23日、東京ではオリンピック開会式が行われるようです。

平和の祭典にふさわしく開催されることを願っています。

 

ここ福岡城内には、平和への願いが込められた「平和台陸上競技場」があります。5月11日、オリンピック聖火リレー点火セレモニーが開催された場所でもあります。緊急事態措置にともない無観客の点火セレモニーとなり、日本で初めての方式として、ステージ上で隣にいるランナーのトーチに聖火を灯し、聖火皿までつなぎました。

 

 

さて、なぜ福岡城跡地に陸上競技場があり、そして平和台と名付けられたのでしょうか。

 

明治4年、廃藩置県後、福岡県庁が置かれ、同9年に移転しました。

その後は陸軍の駐屯地でした。さらに、太平洋戦争後、進駐軍のための宿舎の建設が予定されていました。

『福岡市史 特別編 福岡城』によれば、昭和23年の第三回国民体育大会の誘致を図り、県や市の関係者が占領軍司令部に折衝を重ねて実現にこぎつけ、城内に陸上競技場・拳闘場・サッカー場・ラグビー場を建設して、同23年10月18日に竣工式を挙行しました。その際、これらの運動施設を合わせて「福岡平和台総合運動場」と命名しました。兵舎の跡地に建設した運動場だったため「平和台」という名が付けられたといいます。

当時の福岡国体事務局長、岡部平太氏が、国体会場としての使用を進駐軍と交渉する際、この城内の地について「兵(つわもの)どもの夢の跡をスポーツによる平和の台にする」と述べて、説得したことに始まるといわれているそうです。

 

平和台陸上競技場内の西門の両脇には、共に平和台を完工し第三回国民体育大会を誘致した、第17・18代福岡市長である三好弥六氏と、平和台の名付け親である岡部平太氏の銅像があります。

 

(三好弥六氏銅像)

 

(岡部平太氏銅像)

 

また、舞鶴公園北側には、福岡聨隊の跡記念碑があります。

 

(福岡聨隊の跡記念碑)

 

さらに、時代は江戸時代に遡ってみます。

平和台陸上競技場の場所は、当時どのようになっていたのでしょうか。

 

福岡城むかし探訪館では、江戸時代後期の福岡城を400分の1の復元模型で再現しています。

また、三の丸スクエアには、現在の壁面航空写真があります。これらを並べてみると…

 

(福岡城むかし探訪館 福岡城1/400復元模型)

 

(三の丸スクエア内 航空写真)

 

福岡城は三の丸、二の丸、本丸、天守台の四層構造となっています。

復元模型の中にある赤い印は、現在の福岡城むかし探訪館の場所にあたります。平和台陸上競技場は探訪館の西側ですので、当時の三の丸北側に位置します。そこには、黒田家の重臣が居住する屋敷(家老屋敷)が並んでいたようです。

 

福岡城は時代の推移とともに変容し、時代に即したものが加わっていきました。

その一つである、平和台陸上競技場。平和台という名には、スポーツの発展と平和への願いが込められていたのですね。

 

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