福岡藩初代藩主 黒田長政 ⑴

福岡城の日々

昨年は福岡藩初代藩主 黒田長政公の400回忌の年でした。今回の福岡城の日々では、黒田長政について改めてご紹介します。

 

 

【福岡城むかし探訪館パネルより】

 

黒田長政は黒田孝高(官兵衛・如水)と正室・光(てる)の嫡男として播磨の姫路城で生まれました。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)と言い、人質として織田信長の下に赴き、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に預けられ近江の長浜城で暮らしました。本能寺の変で信長が自刃した後は父とともに秀吉に仕えました。秀吉の死後、関ケ原の戦いでは東軍の徳川方に参加し、勝利に大きく貢献。52万3千石の禄高を得た長政は豊前国中津(大分県中津)から移り、福岡藩初代藩主になりました。

 

【福岡城むかし探訪館ジオラマより】

 

筑前入国当初、名島城を居城としましたが、城下の土地が狭いことを理由に新しく城を築くこととし、福崎の地に1601年(慶長6年)から7年の歳月をかけて築城しました。城名は、黒田氏の故地である備前国邑久郡福岡(岡山県)に由来します。海側から望むと、鶴が羽ばたく姿に似ていることから「舞鶴城」とも呼ばれていました。

【天守閣のCGイメージ画像】

 

長政といえばこの逸話は外せません。これまで福岡城には天守閣はなかったと考えられてきました。というのも正保3年(1646)に描かれた福岡城の絵図『福博惣絵図』には天守閣はなかったことなどから、官兵衛・長政親子は幕府に遠慮して建てなかったというのが定説でした。ところが近年、元和3年(1620)に小倉藩主の細川忠興が三男・忠利に宛てた手紙に、「長政が幕府に配慮し、天守などを取り壊すと語った」という記述が発見されて、存在説が浮上。実際に造ったものの、十数年で取り壊したのでは?と議論を呼んでいます。みなさんはあったのか、なかったのか、どちらだと思いますか?!

 

    

【天守台からの眺め】

 

福岡市では今週中にも桜の開花が発表される予想です。天守台から見える景色も段々とピンク色に染まっていきます。春ならではの天守台からの眺めをご覧になり、黒田長政公や福岡城について思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

舞鶴公園では、3月24日(金)から福岡城さくらまつりが開催されます。

詳しくはこちら⇒「福岡城さくらまつりオフィシャルサイト

 

お花見がてら福岡城むかし探訪館や鴻臚館跡展示館、三の丸スクエアへもお越しください。スタッフ一同お待ちしております。

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