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福岡藩初代藩主 黒田長政 ⑵

福岡城の日々 2023年09月13日(水)
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最近、「黒田長政 没後400年」という文字を、どこかで目にすることもあったかもしれません。
インスタグラムやこのブログでも3月に1度紹介しています。

その黒田長政の命日が、先月8月4日でした。

先だって9月10日までの福岡市博物館 企画展示「没後400年 黒田長政」へ足を運んだこともあり、
改めてその足跡に触れてみます。

黒田長政は1568年12月3日、黒田官兵衛の嫡男として姫路城で誕生。
松寿丸と呼ばれた幼少期は、恐らくその地で平穏な日々を過ごしています。

やがてその宿命ともいえる流れに乗らざるを得なくなったのが10歳の頃。
織田信長の人質(一説では官兵衛が当時仕えていた、播磨小寺家の子の身代わり)として親元を
離れ、滋賀長浜城主、羽柴秀吉の預かりとなります。
そこでは市松(福島正則)や虎之助(加藤清正)とも一緒だったようです。

その後間もなく、織田家に反旗を翻した荒木村重の説得に向かった父 官兵衛が、そのまま摂津有岡城に幽閉され、戻れぬ官兵衛にも謀反の嫌疑がかけられます。
人質の長政は命を落とす所でしたが、周囲の援護(当時、秀吉の軍師であった竹中半兵衛が秘密裏に匿い、信長には虚偽の報告)によって、危機を免れます。

14歳で元服。初陣は15歳。敵を討取り高名を上げ、16歳から賤ヶ岳、小牧長久手の戦いに参戦。
19歳には父と共に九州平定、その後の豊前一族の鎮圧などの戦いが21歳まで続き、1589年22歳の時に父官兵衛から家督を譲り受け、黒田家当主となります。

25歳から31歳の間に、2度の朝鮮出兵。33歳の時、関ヶ原の戦いで東軍(徳川)につき、そこでの知略が功を奏し、短期間(時間?)で東軍を勝利に導くことになりました。
この戦いでは一番の功績と称えられ、長政は家康からこの福岡(筑前)を拝領し、治めることになります。

<長政が初陣より使用の槍「一国長吉」この槍で筑前一国を手に入れたとして「一国」と命名。
作は「長吉」。享保名物帳にもある名槍>

筑前に入ると、新田開発や産業の奨励、また神社仏閣の建立・修復など福岡の発展に積極的に尽力しています

その後も48歳の頃、大阪夏の陣に出陣。

江戸時代となり大きな戦自体は無くなったものの、元々豊臣家臣であった外様大名で、少しの失態で移封や改易になる他藩を目にし、常に気を張り心休まる時はあまりなかったのではないかと…。

1623年8月2日 56歳の時、徳川三代将軍 家光公の宣下に際して、早くに上洛していましたが、病のため京都報恩寺でその生涯を閉じます。

亡くなる2日前に2人の家臣を寝所に呼び、藩の大事の際の対処について長い遺言を残しています。

内容は関ケ原の戦いの時の黒田家の功績を詳細に伝え、この功績をもって厚情を賜れるよう対処すること。
またこの内容を違う向きに使用しないよう、自分の子供(2代目忠之など)には伝えてはならない。
家臣の家督を継ぐ子供のみに密かに伝えるようにと残しています。

死の際まで、一途に家の存続を憂慮していたことが伺えます。

この時代では当然なのかもしれませんが、有能な親元に生まれ、10代の頃から常に命と向き合い、父から譲り受けた黒田家の存続の道を探りながら進む家督としての役割は、どれ程重責であったろうと思います。
この想いが受け継がれ、福岡藩は明治時代に至るまで存続しています。

辞世の句は『この程は うき世の旅にまよいきて いまこそ帰れ安楽のそら』

やっとここに来て役目が終わる..という安堵の気持ちが表れているように思います。

来月10月29日は関ケ原合戦の日です。
423年前の今頃、長政は知略を巡らし奔走し、もしかしたら日々眠れぬ夜を過ごしていたのかもしれません。

ここまででは長政はとても生真面目なタイプのようにも思います。…が、


戦で使用していた兜と陣羽織を見ると…個性も強く案外に目立ちたがり(?)の側面もあったのかな?と感じます。

秋を迎える福岡城。
長政公の生涯が反映しているお城です。
是非ゆっくりと散策されてみて下さい

※文面中、三代将軍「家光」を「秀忠」と新暦10月29日を10月21日と記載しておりました。訂正いたします。申し訳ございませんでした。