官兵衛・長政親子に仕えた優秀な家臣団の中で、特に功績を残した重臣たちを総称して「黒田二十四騎」と呼びます。
常に黒田勢の先鋒を務め、敵兵の首を最も多くあげたといわれる母里但馬友信(母里太兵衛)は、大杯の酒を一気に飲み干し、福島正則から名槍「日本号」を飲みとったという逸話から生まれた民謡「黒田節」で有名です。江戸城天守台の手伝普請の後、徳川秀忠から与えられた感状に「毛利」と書かれていたため、その後は「毛利」と名乗りました。
栗山備後利安は、有岡城に幽閉された官兵衛を何度も訪ねて励まし、落城の時は母里但馬友信とともに炎の中から官兵衛を救出しました。以後、黒田家随一の重臣として活躍しました。
後藤又兵衛基次は、関ヶ原の戦いで長政の先鋒を務めるなど、矢傷・刀傷をものともしない勇猛果敢な武将で、体には53か所の傷痕があったと言い伝えられています。官兵衛の死後、黒田家を去り、晩年は豊臣方の武将として大坂城に入り、大坂夏の陣で討死しました。