福岡城(国史跡)

1600年(慶長5年)、黒田長政は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、戦功を上げ、筑前国ほぼ一国(50万石余、後に52万石余)を与えられ、豊前国中津(大分県中津)から移り、福岡藩初代藩主になりました。

長政は初め、名島城(福岡市東区)に入りますが、城下の平野が狭く、十分な城下町を展開させられないため、福崎(旧那珂郡警固村・現舞鶴公園)に1601年(慶長6年)から7年の歳月をかけて、内郭面積約41万㎡(約12万4千坪)、東西1km、南北700mの全国でも有数の規模の平山型の城を築城しました。城名は、黒田氏の故地である備前国邑久郡福岡(岡山県)に由来します。海側から望むと、鶴が羽ばたく姿に似ていることから「舞鶴城」とも呼ばれていました。

天守閣の存在は定かではありませんが、城跡には天守台・多聞櫓(国指定重要文化財)・(伝)潮見櫓(県指定有形文化財)・下之橋御門(県指定有形文化財)・旧母里太兵衛邸長屋門(県指定有形文化財)・名島門(市指定有形文化財)・御鷹屋敷跡などがあり、当時の様子をうかがうことが出来ます。

また、本丸表御門(県指定有形文化財)は、黒田家菩提寺である崇福寺(福岡市博多区千代)の山門として移築されています。

天守台

多聞櫓

下之橋御門と(伝)潮見櫓

名島門

福岡城について