鴻臚館(こうろかん)は飛鳥・奈良・平安時代の外交施設です。中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として、また日本の外交使節である遣唐使や遣新羅使の宿泊所としても使用されました。
同様の施設は、京都(平安京)・大阪(難波)にも設けられましたが、遺跡が確認され、国指定の史跡となっているのは筑紫の鴻臚館のみです。
鴻臚館が歴史に姿を現したのは、688年で、最初は「筑紫館(つくしのむろつみ)」と呼ばれました。平安時代になって、中国・唐の外交を司った「鴻臚寺(こうろじ)」にならい「鴻臚館」と改称されました。この頃より鴻臚館は、外交から貿易の拠点へとその役割が変わっていきました。約400年の間、対外交渉の窓口として重要な役割を担った鴻臚館でしたが、1047年の放火事件の記録を最後に歴史の舞台から姿を消します。
鴻臚館復元整備イメージ
中山平次郎博士
鴻臚館の位置については長らく、現在の博多区下呉服町付近にあると考えられていました。
大正時代、九州帝国大学(現九州大学)医学部教授で、考古学者でもあった中山平次郎博士が、遣新羅使が筑紫館で詠んだ万葉集の歌をヒントに、古代の瓦や陶磁器等を福岡城内で発見し、福岡城内説を提唱しました。
その後、1987年(昭和62年)平和台球場の外野席の改修工事の際に、遺構が発見され、本格的な発掘調査が開始されることとなりました。鴻臚館の全容解明のための発掘調査は、現在も続けられています。
万葉歌碑
鴻古代の交易拠点だった鴻臚館跡からは国際色豊かな遺物が出土しています。
現在の中国の河北省、浙江省、湖南省などで生産された陶磁器や朝鮮半島の新羅、高麗産の陶器、西アジアのイスラム系陶器やペルシャ系ガラス器なども発掘されました。
また、各地から送られた物資に付けられていた木簡や、その木簡を転用した、いわゆるトイレットペーパーとして使用された籌木(ちゅうぎ)もトイレ状遺構より出土しています。
青磁花文碗<再現品>
三彩印花鴛鴦文陶枕<再現品>
陶磁器出土状況
出土した籌木
慈覚大師円仁像〈部分〉 所蔵:福岡市博物館
鴻臚館は海外からの使節の迎賓館であるとともに、日本から旅立つ遣唐使や遣新羅使のための宿泊場所でもありました。
吉備真備、最澄、空海、円仁など日本の礎を築いた多くの人々がここから旅立ちました。
唐へと向かう船旅は、およそ半数の船が遭難するほどの危険なものでした。しかし、当時の最先端の制度や技術、仏教の教えを学ぶため、遣唐使一行は荒海へと乗り出していったのです。