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名島門と三の丸スクエア

福岡城の日々 2022年11月25日(金)
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朝晩の冷え込みが身にしみる季節になりました。秋雲が多くなり、少し寂しく感じられますが、三の丸スクエア玄関前の大きなイチョウの木は黄色く染まり、暖色カラーの葉が暖かみを与えてくれています。

 

さて、城内には名島門という門が、三の丸広場と平和台陸上競技場の間にあります。

 

この門は福岡市東区にある名島の地名が付けられています。福岡城内にあるのにどうしてなのか不思議に思われている方もおられるかも判かりませんので、簡単にご紹介したいと思います。

1587年、豊臣秀吉は九州平定を果たし、1588年、秀吉の政権下で小早川隆景は名島城の築城を始めました。名島門はこの名島城の脇門として造られました。切妻造り、本瓦葺きの櫓門です。後に、小早川隆景は養子とした小早川秀秋に家督を譲り、秀秋は名島城の城主となりました。

1600年関ケ原の戦いの後、徳川家康から筑前国を拝領した黒田長政は、父官兵衛と共に豊前中津(大分県)から名島城へ入城、居城としました。しかし、名島城は三方を海で囲まれ、戦国の乱世には相応しいが、城下が狭く、これから城下町を形成していくうえで不便だったことや、既に発展していた博多の町に遠かったことなどから、現在の場所に福岡城を築城しました。

その際、建築資材として名島城の石垣や櫓等は、ことごとく解体されて福岡城の築城に流用されたと言われています。一方、名島城の遺構は「名島ひけ」と呼ばれています。名島門も「名島ひけ」の一つですが、福岡城築城には使用されず、関ヶ原の戦いで戦功を挙げた黒田24騎の1人、林掃部(林直利)に下げ渡され、邸宅の門として使用されました。名島門は二層になっており、二層の門を下げ渡されたのは林掃部一人だったようです。

 

明治中期に、長崎の骨董商がこの門を購入しようとしましたが、当時の代議士によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていました。その後、1961年、ビルの建設に伴って、現在地に移築され、舞鶴中学校の校門として使用されました。当時、この門の前面に「舞鶴中学校」と記した門柱がありましたが、現在は撤去されています。ちなみに、現在の三の丸スクエアは旧舞鶴中学校の一部を利用しており、名島門は、三の丸スクエアに来館されたお客様を、城内をご案内する際の大きな目印となっています。

城内にお越しの際は、ぜひ、名島門をくぐってみてくださいね。
そして、名島門の旧校門と、鴻臚館・福岡城の歴史をハイライトで紹介している三の丸スクエアの展示品なども、楽しんでください。

(出典:「福岡市史 福岡城」、「図説 福岡・宗像・糸島の歴史」)