相御殿は本丸の天守台東側にありました。現在は桜の木々の間に表示石が現れます。
よく見てみると表示石の“相御殿跡”の上に、水鏡権現・聖照権現の2つの文字が見えます。この文字は何を表しているのでしょうか。
この相御殿跡、江戸時代は水鏡権現・聖照権現の2つの祭神を祀っていました。相殿(あいどの)とは複数の祭神を祀ることを指すそうです。
聖照権現(聖照宮)は、福岡藩初代藩主黒田長政を祭る神殿です。黒田家の血筋が自分の代で途絶えることになった六代藩主黒田継高は、本丸に祠を建て、長政の神霊を安置して、祖霊の祭祀を行うことを決めました。神殿には長政が軍陣で用いた鎧などや、長政所用を模して新たに制作して納められた一の谷の兜なども納められました。
水鏡権現(水鏡宮)は、福岡藩祖黒田孝高(官兵衛・如水)を祭る神殿で、聖照権現を祭った際、故あって合祀できなかったため、数年後に勧請されたそうです。
その後本丸の相御殿への参拝は、忌日(命日)の参拝以外に、年始、新穀、冬至などの季節の賀礼や新藩主の帰国・着城、参勤交代などの際にも行われました。
光雲神社 鳥居 (写真提供:福岡市)
明治以降は廃藩置県や廃城令が発せられ、黒田家の城外退去に伴い、聖照権現と水鏡権現は有志の手により城下の小烏馬場、吉祥院跡(現在の福岡市中央区警固神社付近)に移され、社号を光雲(てるも)神社と改称しました。龍光院殿(黒田官兵衛の諡号)と興雲院殿(黒田長政の諡号)の各一文字を採ったものです。明治四十二年に小烏馬場から荒戸山の東照宮跡地に移転遷座し現在に至ります。今の西公園の地です。
長政の水牛の兜像 (写真提供:福岡市)
母里太兵衛像 (写真提供:福岡市)
現在、光雲神社では官兵衛・長政親子が祀られていると同時に、黒田長政が愛用していた水牛兜の像や、黒田二十四騎の母里太兵衛の像を見ることもできます。母里太兵衛の像の右手に持っている槍は、祝宴で大盃を飲み干せば、この槍を与えるという約束を守らせて、武将:福島正則から手に入れたもの、別名“呑み取りの槍”と言われています。黒田節で有名な話ですね。こちらの槍、“日本号”は福岡市博物館でご覧いただけます。
このように、黒田家は江戸時代から今なお福岡の地に受け継がれています。現在も官兵衛・長政親子が、西公園の地から福岡を守ってくださっているようですね。
だんだんと暖かくなってきましたので少し早めの春を探しに、また江戸時代から現代への思いを馳せながら、舞鶴公園や光雲神社を散策してみてはいかがでしょうか。桜のつぼみも少しずつ膨らんできています。春はすぐそこまで来ているようですね。