数年前のある日、二の丸の東側(ラグビー場東側)土手付近を散策中に、偶然「高櫓跡」の表示石を発見。
その表示石の背後に見えるのは、鴻臚館跡展示館の屋根。左手眼下には鴻臚館広場が見渡せます。
三の丸にある鴻臚館広場側に下りて場所を確認。右手に東御門跡、左手奥の鴻臚館跡展示館の横に高櫓の櫓台が見えます。
こちらが「高櫓」を支えていた櫓台。ドーンと張り出した、かなりの存在感をもつ石垣です。この上に高櫓が建っていました。
実は、ほぼ毎日と言っていいほどこの石垣の横を通り、さらには以前開催した城内を巡るイベントで、「野面積、割石積、算木積の3つの石積が一度に見られる貴重な石垣」としてこの場所を紹介していました。
なのに、表示石発見までずっとこの石垣が櫓台だったとは気づかず。この場所がこんなに張り出していたのは櫓が建っていたからだったのか!と吃驚。お城スタッフとしてちょっと恥ずかしいかも・・・。
そこで今回、表示石のおかげで、はじめて存在を知った「高櫓」について掘り下げてみたいと思います。
次の写真は、福岡城むかし探訪館にあるお城の模型です。
高櫓は、二層のかなり大きな櫓だったことがわかります。三の丸東側を見渡せる位置に建ち、背後の二の丸御殿を守っているようにも見えます。
高櫓は東御門とともに、二の丸へと攻め込もうとする敵から城を守っていました。見張りだけでなく、攻撃の拠点としての役割もあったようです。
東御門に敵が近寄ろうとすると・・・
高櫓から矢が飛んでくる!
敵は正面からだけではなく、横からも攻撃を受けます。これぞ城郭建築の基本「横矢掛け」。側面から敵に攻撃を仕掛けるための工夫で、石垣や土塁、堀などが折れ曲がったり張り出したりしているのは、この横矢掛けを仕掛けるためで、お城のあちこちにこの仕掛けが施されています。
しかし、横矢掛けをするならば、もう少し東御門よりの方が矢が届きやすそうなのに、なぜこの位置に建てたのか・・・と考えていたところ、あることに気づきました。
別の角度(南側)からのお城の模型。
高櫓から先の「水の手」方面へと続く石垣が、真っすぐではなく折れていっています。
さらに、三の丸スクエアの航空写真で確認しても・・・・
やはり西側へと折れていっているのが分かります。
どうやら地形的な問題もあり、この部分で石垣の方角を変えなければならず、横矢掛けも可能なこの場所に櫓台を立てるのがベストな選択だったのでは・・・?
まだもっと他にも深い理由があるかもしれませんが、偶然出会った「高櫓跡」の表示石を通し、今まで気づかなかった発見をして、お城の面白さを再認識しました。
なぜこの位置に櫓や門を建てたのかなどを考えながら城内を巡ると、城内散策がさらに楽しくなりますね。
因みに高櫓は、ある時期から樫や楢などから作った炭が納められるようになり「炭櫓」とも呼ばれるようになりました。城内には他にも「武具櫓」や「鉄砲櫓」など収納していた物の名前が付けられた櫓、「時櫓」や「祈念櫓」など役割から名付けられた櫓など、数多くの櫓が存在していました。
福岡城は今日ほとんど建物が残っていませんが、お城の縄張りや石垣はほぼ江戸時代当時の姿を留めています。城内に点在する表示石も、当時のお城の様子に想像を巡らせる手助けをしてくれます。
二の丸梅園の梅の花が咲き始めました。お花見ついでに表示石を探しながら城内散策はいかがでしょうか。スタッフ一同お待ちしております。