明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、この「福岡城の日々」については、今回より新たなシリーズを展開いたします。
福岡城は全国有数の規模を誇り(内郭面積約41ヘクタール)、10の門と47を超える櫓があったと言われていますが、残念ながら建物はほとんど残っていません。
しかしながら現在、それらの場所には表示石が設置されており、往時の城内の様子に思いを馳せることができます。
これらのことから、今回から8回シリーズで「福岡城内の足跡(表示石)を訪ねて」と題し、それらの一部をご紹介していきます。
第一回目は、「三の丸跡」・「侍屋敷跡」です。
福岡城跡(舞鶴公園)北側に、ひっそりと佇む二つの表示石「三の丸跡」と「侍屋敷跡」があります。これらは、城内の三の丸跡地に位置しています。
福岡城は三の丸、二の丸、本丸、及び天守台の四層構造からなっており、この中で、とても広大な敷地の三の丸は、黒田如水の隠居所であった高屋敷(御鷹屋敷、現在の牡丹芍薬園)と、松ノ木坂を結ぶ石垣によって東部と西部に二分されます。
こちらは、高屋敷跡から南に向かって続く石垣です。この石垣の左側が三の丸東部、右側が三の丸西部になります。
東部は、東西約900メートルに及ぶ長大かつ平らかな曲輪で、面積はおよそ18ヘクタール、堀を除いた内郭総面積の約五分の二を占めます。
時期によって屋敷割に変化があるものの、江戸時代初期から幕末まで大身屋敷などが置かれていました。
この三の丸東端は「東の丸」と呼ばれ、築城当初、本丸ができあがるまでの間、初代藩主黒田長政が居住していました。本丸完成後、栗山備後の屋敷となりますが、「黒田騒動」により、栗山家は屋敷を退去しました。また、この辺りには、後藤又兵衛などの屋敷もあったようです。
(福岡城むかし探訪館 江戸時代後期の福岡城1/400復元模型より)
① 高屋敷と松ノ木坂を結び三の丸を東部と西部に二分する石垣
② 二代藩主 黒田忠之屋敷跡
一方、西部は、南北700メートルに及ぶ長大な曲輪で、面積はおよそ13ヘクタール、堀を除いた内郭総面積の約三分の一を占めます。
時代によって、城内で最も景観が変化した場所です。築城当時は代官町として中下級家臣の屋敷が置かれていました。
寛永10(1633)年頃、二代藩主忠之は、本丸が手狭になり、また本丸に登る坂が家臣の煩いにもなり、不便であるということから、代官町のうち六区画を取り壊して、二の丸西側下に新たに本丸御殿の1.5倍ほどの御殿を造営しました。
三代藩主光之も当初は、この屋敷を住まいとしていました。しかしながら、老朽化が進んだ上に、火災の時に本丸へ延焼する危険があるとの理由で、寛文11(1671)年、三の丸北側(高屋敷西側)に場所を移し、新たな三の丸御殿として建て替えました。ここは、「御下屋敷」または「西の丸」と呼ばれていたようです。
その後、御殿は焼失による再建や、一橋徳川家からの養子を迎えるための再建などを経て幕末を迎えました。
(参考:『福岡市史 特別編 福岡城』)
現在の三の丸跡地には、復元や移築された歴史的建造物がいくつかあります。なかでも、明治通り側から眺める、下之橋御門や(伝)潮見櫓は福岡城内では最もお城の雰囲気を感じさせてくれます。また、三の丸広場の北西隅には潮見櫓そのものの復元も進められております。
冬の福岡城跡は、木の葉が落ち、夏の間、木々に覆われていた石垣がよく見えます。さらに、雪が降れば城内全体が真っ白になり、とても幻想的です。是非、暖かくしてお越しください。