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古の三の丸南西部

福岡城の日々 2021年11月22日(月)
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木々の紅葉の美しさに秋の深まりを感じる今日この頃です。ここ福岡城跡でも、色とりどりの落ち葉を踏みしめながら散策をするのが楽しい季節となりました。

10月から開催されている多聞櫓特別公開も残すところ、11/23日(火/祝)・11/27日(土)・11/28日(日)の3日間となりました。是非、この機会にお立ち寄りください。(公開時間は、10時から15時までです。)

 

さて、江戸時代からただ一つだけ現在地に残っている多聞櫓ですが、当時のこの辺りの様子はどのようになっていたのでしょうか。

福岡城むかし探訪館にある、江戸時代後期の福岡城を400分の1で再現した復元模型で見ていきましょう。


( ①追廻御門 ②樹木所 ③鉄物櫓 ④追廻橋 )

こちらは三の丸南西部です。

そこには、福岡城の搦手門(からめてもん。有事の際には、藩主などがここから逃れていく)に相当する追廻御門があったようです。石垣の構えなども含めて追廻口と呼ぶこともあり、『福岡市史 特別編 福岡城』には以下のような記述があります。

「福岡城でもっとも堅固な虎口で、巧妙に組み合わせた塀・土塁・石垣・曲輪(樹木所)・門(追廻御門)・櫓(鉄物櫓ならびに花見櫓)・塀によって効果的な防御・出撃が可能であった。

追廻御門は、特に石垣の構えなどを除いた木造の門建築を指し、その名称は門外に設けた追廻馬場に由来すると考えられる。追廻とは、元来普通名詞で、馬場の中央に一条の土手を設け、その両端をあけて、騎者が一巡できるようにしたものである。

樹木所(植物曲輪)は追廻口を構成する曲輪の一つで、ここを守っている間は、虎口から侵入する軍勢に対して、弓・鉄砲を射かけ続けることができた。曲輪の名称は、寛文(1661~73)期ここに設けられた花畠に由来すると考えられる。

鉄物櫓(一層、一戸前)は樹木所に置かれた櫓で、追廻口を守る櫓の一つである。後世の資料も含めると、三味線櫓、切出櫓など異称も多い。金物櫓とも表記されるので、読みは「かなものやぐら」と考えられる。」

 

さらに、三の丸スクエア内にある現在の壁面航空写真を見ていきましょう。

当時の追廻橋は、福岡市美術館側から道路をまたぎ城内の鉄物櫓石垣台の手前の辺りへ架かっていたようです。

追廻橋とは、馬を追い廻して入れた橋でもあることからこの名前が付けられたとも考えられるそうです。

福岡市博物館のアーカイブズ『福岡藩の殿様と武士と動物たち-馬と鷹-』によれば、現在の福岡市美術館近くには、長い馬場が設けられ、そこで乗馬の訓練が行われていたそうです。

なお、鉄物櫓は、明治35(1902)年に炎上し、焼失してしまいました。

また、追廻御門は、大正5(1916)年の大観兵式に際して、天皇の通路を遮断することが懸念されたことにより、追廻橋とともに解体されたそうです。

 

① 追廻御門の復元模型と現在

 

② 樹木所の復元模型と現在

 

③ 鉄物櫓の復元模型と現在

今、追廻御門や追廻橋はありませんが、当時、この場所を馬が駆け抜けていたのかと思うと、古の三の丸南西部の姿がよみがえり、感慨深い気持ちになりました。

皆様も、紅葉がより一層鮮やかになる中、古に思いを馳せにお出かけください。