7月に入り本来ならば、福博の街は7月1日から15日まで博多祇園山笠一色になります。
昨年同様に今年も舁き山(担いで走る山笠)はお休みですが、今年は福岡市内各所で飾り山(奉納するために飾られる山笠)を見ることが出来ます。今回は黒田家と博多祇園山笠のつながりについてご紹介します。
博多祇園山笠行事【写真提供:福岡市】
博多祇園山笠とは、2016年にユネスコ無形文化遺産に登録された700年以上続く、博多の総鎮守・櫛田神社の奉納神事で、起源については諸説ありますが、一般には1243年、博多承天寺の開祖・聖一国師が、疫病を鎮めるために人々が担ぐ施餓鬼棚に乗って甘露水(祈祷水)を博多の街に撒いたことが始まりと言われています。
その後、博多の町は貿易等で栄え、その豊かさから様々な武将が領地を争い博多は荒廃してしまいましたが、豊臣秀吉が九州平定し、復興のために『太閤町割り(博多町割り)』を行いました。黒田官兵衛は秀吉からの命により、この太閤町割りの実務を担っていました。官兵衛は江戸時代になってからの福岡藩拝領後の福岡城の築城だけでなく、博多の復興にも大きく関わっていたんですね。秀吉はさらに楽市楽座などの施策で博多商人の商業活動を保護し、山笠は博多商人による経済的柱のもと、しっかりとした自治組織によって、祭りとしての形態を固めていきました。
【博多祇園山笠公式サイトより】
この太閤町割りの中で“流(ながれ)”という呼称ができます。流とは10~15くらいの町が集まって1流とする、いわば町の自治組織の単位です。この呼称はいま尚、山笠で使われています。
呼称の起源としては、黒田官兵衛が家老として仕えた播磨・御着地方(姫路)では、ため池を流と読むそうで官兵衛が名付けた説や、小川や旗を数える単位として「流(ながれ)」という言い方があり、道路を中心に長く伸びた町の集合体を小川などに見立ててそう呼んだのではないかという説もあるそうです。
櫛田神社【 写真提供:福岡市 】
また初代福岡藩主黒田長政は、福岡城築城と城下町の建設とともに、博多の総鎮守である櫛田神社の大規模な修復普請を行いました。三代藩主光之は、櫛田神社に能舞台を寄進し、六代藩主黒田継高は櫛田神社の記録では、藩主で初めて山笠の上覧(身分の高い人がご覧になること)を行ったそうです。その後、江戸時代後期の藩主や世継の上覧は、博多の祭りの組織を総動員した大掛かりな儀式でした。最後の福岡藩主 長知まで上覧は続きました。このように豊臣秀吉の太閤町割り以降、黒田家と博多祇園山笠は深いつながりがあったのです。
福岡市博物館では、8/29(日)まで企画展示室4で『博多祇園山笠展20』が開催されています。また、7/6(火)-9/5(日)まで、企画展示室2では『天下取りと黒田孝高・長政』もご覧いただけ、こちらでは、へし切長谷部・日本号・日光一文字を一堂にご覧いただけますよ。
福岡城むかし探訪館では、へし切長谷部のレプリカを展示し、古地図や再現模型などもゆっくり鑑賞していただけます。お堀端の蓮も開花しておりますので、お散歩がてら当館へもお立ち寄りください。