長かった猛暑ですが、ようやく爽やかな季節になりました。
こちらは当館の目の前に広がる鴻臚館広場の様子です。
散歩をされる人もいれば、ランニングをされる人たちも。市民の憩いの場となっています。
ところで、この写真に写っている地面の上の赤いマーク、何だかご存知ですか?
実はこの鴻臚館広場には、8世紀前半の頃、それぞれ東西約70m、南北約60mの外周の塀を持つ2棟の鴻臚館、北館と南館がありました。
この細長い赤のラインは、鴻臚館の北館の塀の跡。そしてその左側の長方形のマークの下に眠っているのが本日のお題、「古代のトイレ」です。
わが国で初めて遺跡において古代のトイレが発見されたのが、鴻臚館の南館側で、1990年春のことでした。こちらがその時の様子です。(上の写真は北館側のトイレの跡で、2000年度からの調査で確認されました。)
1.5mほど掘り下げたところで突然土の色が変わり、水平に堆積している黒色粘土質土層にぶつかり、その土の中から腐蝕した多量の木片が見つかったそうです。
当時の発掘責任者の山崎純男さんは、『「井戸かな?」という考えがわいた。』と「福岡城物語 はかた学7」に書かれています。
また1990年度の鴻臚館の調査資料にも、「この土坑(穴のこと)の使用目的は現在検討中。他のゴミ穴の土坑と区別して井戸状土坑とよんでいる」とも書いてあり、この時点ではまだこの穴が何なのか謎でした。
その後、排土を1㎜のメッシュのふるいにかけ水洗選別を行ったところ、多量のヘラ状の木製品、魚骨のほか 植物の種子に混じってウジ虫のサナギの殻も多量に検出されました。
また水平に堆積するには、堆積前の状態がどろどろした液状であったことがうかがえ、考古学的資料からトイレの遺構と説明可能。粘土層の黒さも糞尿と考えれば納得がいく、と謎解きが進んでいきます。
さらに、脂肪酸分析を帯広畜産大学の中野益男教授(当時)にお願いされ、その結果、堆積物の脂肪酸からみて 間違いなく人間の糞尿とわかり、トイレであることが確認されました。
余談ですが、「圧縮水で木片を露出していた時、はね返り水が口に入り、塩っぱかったことが思いだされる。」とも山崎さんは書かれていました。
さて、南館側で3つ、北館側で2つ見つかったトイレは、いずれも深さ4mほどの穴を掘り、その上に板を渡し使用していたようです。(イメージ的には下の写真のようにでしょうか?!)
また、瓦も出土したことから、瓦拭きの建物で覆われていたと思われます。
排土の中から多量に見つかった木片は、トイレットペーパーの代わりに使用された「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれるもので このような形をしています。
この「籌木」とは、「木簡」と呼ばれる木の札を細く、へら状にしたものです。
「木簡」とは、紙がなかった時代に文字を記したもので、主に荷札として使われており、国内の各地から鴻臚館に食料等が送られてくるときにも使用されていました。
総数約70の「木簡」が発掘されましたが、文字が残っていたのは十数点。年号が書かれたものはありませんでしたが、その書き方がトイレとして使われた時期の謎解きのヒントとなりました。
また、「木簡」と一緒に出てきた土器は8世紀中頃のものだったことから、奈良時代前期、鴻臚館の前身である筑紫館(つくしのむろつみ)時代のトイレとの特定に至りました。
トイレの遺構の発掘により分かってきたことはほかにもあります。
寄生虫卵分析により、豚ないしイノシシを常食していたことや、当時この周辺には自生していなかったチョウセンゴヨウマツやナツメの実がでてきたことから、外国人専用のトイレと日本人専用のトイレが別だったことも想定されています。
このように「トイレ」は、当時の様ざまな生活様式等を現在の私たちに教えてくれる貴重な情報源なのです。
一方、発掘調査の結果採取された花粉の分析や種実同定により、イネ科、マメ科、ウリ科、ナス科、ソバ属など今の私たちにも馴染みのある植物も検出されました。この検出された植物関連資料と、平安時代後期の「類聚雑要抄」(るいじゅうぞうようしょう)所載の宴会料理を参考にした鴻臚館時代(平安時代)の料理がこちらになります。
花粉分析の結果からは夏に花期を迎える物が多かったため、盛夏から秋の食膳をイメージして奈良女子大学の前川佳代さんが料理を組み立てられました。
古代の迎賓館である鴻臚館で、このような料理のおもてなしをうけた海外からのお客様。
彼らは何を日本にもたらしてくれたのでしょうか?
詳しくは、次回の「鴻臚館と唐物(からもの)」で。お楽しみに!