7世紀後半に九州の政治的な統括・対外交渉の窓口・貿易の要として、
筑前国(現在の福岡県北西部)に地方行政機関の大宰府が置かれました。
この大宰府の政務を取り扱っていたのが『大宰府政庁』でした。
みなさんは大宰府政庁の「大宰府」と、太宰府市の「太宰府」の違いが
分かりますか?
一般には、古代律令時代の役所およびその遺跡に関する「大宰府」、
中世以降の地名や太宰府天満宮については「太宰府」と明記されるように
なりました。
大宰府政庁は「遠の朝廷(とおのみかど)」とよばれ、
都(中央政権)からは離れていましたが、
権限の大きさからそう呼ばれ、アジアとの外交と防衛などの大きな役割を担っていました。
万葉集の柿本人麻呂の歌にも「遠の朝廷」と表現されています。
平城京(平城京は唐の長安を参考)を模して造られ、碁盤の目状の街が広がり、
長官から雑用係も含めて1,000人以上の人が働いていたとも言われています。
ちなみに元号「令和」で脚光を浴びた大伴旅人は、大宰府政庁へ長官として赴任し
その手腕を発揮していました。
この大宰府の出先機関の一つが鴻臚館でした。「蕃客所」に属していて諸外国との
外交施設として、また、この辺りの警固(外敵から国を守る)を行う
「警固所」にも属していたようで、ともに大宰府を補助するための施設でした。
ところで、かつて大宰府政庁と鴻臚館とを結ぶ道があったことを、皆さんはご存じですか?
この道は官道といわれており、国によって整備・管理・維持がなされ現在の高速道路の
ようなものでした。
官道は中央集権と地方間の情報伝達手段として整備されたもので、こちらの官道は
外国からの使節団の到着を、鴻臚館から早馬を走らせ一刻も早く大宰府に伝達する
などといった大きな役割を担っていました。
この官道には、大宰府の防衛のため造られた「水城」において、東門と西門が整備され、
それぞれの門から博多湾岸方面に二本が並行して伸びていました。
このうち、鴻臚館と大宰府とを結ぶ道は西門を通る官道で、
幅約10m、長さは13~16㎞の道になっていました。
その当時、早馬(時速20㎞)で約40分、
徒歩(時速4㎞)で約3時間20分かかっていたそうです。
外国使節や唐、新羅への遣使・留学生はこのルートで大宰府へ向かっていました。
ちなみに東門を通るルートは、大宰府と博多湾岸とを結んでおり、
朝廷から派遣された高級官人(国家公務員など)が利用していたそうです。
歴代の大宰府長官らもここを通ったのでしょうか?
このように西門ルートと東門ルートとでそれぞれの役割がありました。
現在はそのうちの一部が市道として活用されています。
次回のテーマは『遣唐使』です。
遣唐使と鴻臚館はどのような繋がりがあったのでしょうか?
お楽しみに~!