福岡城の話をするときに、12月といえばまず官兵衛と長政の誕生月を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
西暦で数えると二人とも12月生まれ。
親子で同じ誕生月なんて素敵ですね。
戦国時代を駆け抜けた二人の人生を辿ってみたいと思います。
1546年12月22日、黒田官兵衛(孝高よしたか)、播磨国姫路城主の嫡男として誕生。
14歳のとき、母・いわ、没。
17歳、父・職隆(もとたか)に従い初陣。
22歳、家督を継いで姫路城主となる。主君・小寺政職(まさもと)の縁戚、光(てる)と結婚。
小寺家の若き家老となる。
23歳、長男・松壽丸(のちの黒田長政)誕生。1568年(元禄11年)12月3日。
30歳、織田信長と毛利輝元の勢力争いに巻き込まれ動揺する小寺家中を、織田方帰順にまとめる。
自ら使者として岐阜に赴き、羽柴秀吉と出会う。信長に面会。宝刀「へし切長谷部」を賜る。
32歳、中国攻めのために下ってきた秀吉に姫路城を提供。兄弟の契りを結び、二人三脚で播磨攻略を薦める。
33歳、織田方についていた主君・小寺政職や摂津の荒木村重が謀反。
官兵衛は村重の説得に赴くが、有岡城に幽閉される。帰らぬ官兵衛を信長は謀反と疑い、激怒。
このとき、信長は人質だった長政の打ち首を命じるが、竹中半兵衛の機転により一命をとりとめる。
34歳、有岡城落城の際、家臣に救出される。1年間の幽閉生活で膝が曲がったが、謀反人の汚名はそがれた。
以後、異形の軍師として秀吉に仕えていく。かくまわれていた長政も信長の許しを得て開放される。
37歳、信長の死を悲嘆する秀吉を支え、中国大返しを成し遂げ、山崎の戦いに勝利する。
38歳、この頃、キリスト教に入信し洗礼を受ける。
40歳、父・職隆、没。
42歳、豊前六郡の領主となる。太閤町割りにて博多の町の区画整備に関わる。
43歳、中津城を居城と定める。
44歳、家督を長政(21歳)に譲る。
45歳、秀吉の小田原城攻めに加わり、北条氏政・氏直親子に講和を交渉。小田原城開城を実現させる。お礼に北条氏より太刀「日光一文字」を贈られる。
48歳、浅野、長政とともに朝鮮出兵。現地で石田三成らを怒らせる。秀吉の怒りまで買ってしまい、剃髪して如水円清と号する。
55歳、天下分け目の≪関ヶ原の戦い≫に乗じ、九州をほぼ制定する。嫡男・長政は関ヶ原で活躍。徳川家康より勝利に尽力したことが評価され筑前(福岡県)52万石を与えられる。
56歳、福岡城築城が始まる。妻と静かな余生を過ごす。長政33歳。
59歳、1604年(慶長 9年)3月20日、京都・伏見の藩邸にて病死。
福岡市崇福寺黒田家墓所にて祀られる。
長政55歳、1623年8月29日京都にて死去。
≪関ヶ原の戦いでのエピソード≫
合戦が終わって官兵衛と対面した長政は、関ヶ原での武功について家康から手を握って讃えられたと喜んで報告しました。官兵衛は「そのとき、どうして空いた手で家康を一刺ししなかったのか?そうしたら天下はお前のものだったのに」と嘆いたと言われています。
時代の先を見通すことに長けていた官兵衛にとっては歯がゆい思いがあったのかもしれません。
しかし、兼ねてよりの願いであった乱世が終わり、長きにわたって黒田家を繋いでいった長政の時代を読む力にも心惹かれるものがあります。官兵衛の胆力、華やかさとはちがったしなやかさを感じます。
大きく時代を動かした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など名だたる武将を陰で支え続けた黒田家の歴史は義に厚く、心揺さぶられるエピソードも多く残っており興味は尽きません。
12月は、官兵衛と長政らが福岡城築城に向け筑前(福岡県)に入国した時期でもあります。
新しい年を迎えるにあたり、様々な想いがめぐらされたことでしょう。
なにかと気忙しいときですが、温かい飲み物と一緒に歴史書に手をのばされてみませんか。
参考資料
福岡城むかし探訪館内黒田官兵衛略年表
福岡城内武具櫓跡案内ボード
NHK大河ドラマ(NHKオンデマンド)