春から夏へと季節が移り変わろうとしています。福岡城内の風景も少しずつ夏へと向かっているように感じます。
さて、今回は黒田二十四騎について少し触れたいと思います。黒田二十四騎とは、黒田官兵衛・長政親子に仕えた優秀な家臣群の中で特に功績を残した重臣たち24人が後に選出され、その呼称です。
構成は、官兵衛と長政を除いた重臣で「一門」・「大譜代」・「古譜代」と3つに分かれていました。親族「一門」の中から3人を選び、次に播磨・姫路代より官兵衛に従ってきた「大譜代」71人の中から19人を選び、更に中津藩主時代を支えた家臣群「古譜代」84人の中から2人を選出して、合計24人としました。「一門」には黒田利高、「大譜代」には栗山利安・後藤基次・母里太兵衛友信、「古譜代」には毛屋武久等がいました。
(黒田二十四騎)
※福岡城むかし探訪館内パネルより
また、この二十四騎の中でも特に重用された8人を「黒田八虎」と言います。栗山利安・井上之房・母里太兵衛友信・後藤基次・黒田利高・黒田利則・黒田直之・黒田一成の8人です。黒田利高は官兵衛の弟で、利則と直之は官兵衛の異母弟です。
官兵衛や長政が様々な場面で、この家臣等に助けられた逸話が幾つかあります。
織田信長に反旗を翻し、有岡城に籠城した荒木村重を説得に出向いた官兵衛がそのまま土牢に幽閉されてしまい、1年後の落城した時に官兵衛を救出したのが栗山利安と母里太兵衛だと言われています。そしてこの土牢の牢番だった加藤又左衛門の息子の玉松が、なんと後の黒田一成です。
また秀吉の死後の1599年に徳川家康が会津攻めに関東に下った時、その隙に大阪城に入場した石田三成が大名の妻を城内に移そうとしましたが、官兵衛の妻と長政の妻を大阪屋敷から中津に逃がしたのも、利安と太兵衛だとされています。
※参考資料・・・岡部定一郎「福岡城寸描」より
福岡城内には、母里太兵衛が屋敷に構えていた長屋門があります。昭和40年に現在地に移築されました。長屋門とは屋敷周囲の長屋と門が一体化した形式で、この門は江戸時代の武家屋敷の長屋門の形態を良好にとどめており、昭和31県指定文化財に指定されています。
※旧母里太兵衛邸長屋門の説明パネルより抜粋
ところで、今 城内では、下之橋や御鷹屋敷跡などで、新緑の中 鮮やかな青色などの紫陽花が色付き始めており、とても綺麗です。
花菖蒲なども見頃を迎えています。
色々なお花を観賞し、歴史を感じながら福岡城跡の散策をお楽しみ下さい!(^^)!