「福岡城内の足跡(表示石)を訪ねて」のシリーズも最後となりました。最後は「黒田如水公 御鷹屋敷跡」です。
福岡城の三の丸にあった御鷹屋敷は、官兵衛が晩年隠居生活を送った場所です。官兵衛は1601年からの福岡城の築城当初は太宰府に住んでいましたが、1,2年を経てここに屋敷を構えて居住したと言われています。しかし官兵衛は1604年3月20日に伏見で没したため、ここに住んでいたのは、わずか数か月と推定されています。
官兵衛が死去したのちは、年貢算用の統括責任者である喜多村安右衛門、ついでその後継者である四宮市兵衛の屋敷となったようです。その後については明らかではなく、江戸時代中後期の絵図には「高屋敷」「鷹屋敷」あるいは「山」と記されているのみです。
※参考史料・・・新修『福岡市史』 特別篇 「福岡城」
現在は牡丹・芍薬園になっています。
坂を上がるとこのような綺麗な花を楽しむことができます。
ところで、石にも刻まれている『黒田如水公 御鷹屋敷跡』の「如水」とは「官兵衛」の剃髪後の呼び名です。「官兵衛」も通称名であり、実名は「孝高」と言いました。また官兵衛はキリシタン大名でもあり「ドン・シメオン」という洗礼名も名乗っていました。ちなみに幼名は「万吉」でした。ここでは、「官兵衛」の呼び名で統一いたします。
官兵衛の人物像に触れてみたいと思います。
豊臣秀吉に仕え、優れた戦術家であったことは有名ですが、黒田24騎(優秀な家臣のなかで特に功績を残した重臣)の勇敢で、個性的な家臣等をまとめる手腕にも優れていたようです。
官兵衛は暴れん坊と言われた母里太兵衛と栗山利安に義兄弟の契りを結ばせ、利安を兄として従うよう命じたという逸話があります。他人の言うことをなかなか聞かない太兵衛も利安の言うことはよく聞いたと言われています。官兵衛は、今で言えば組織力強化のための人選や組み合わせに卓越していたのでしょう。そして何よりも家臣からの人望が厚かったのだと思われます。
※福岡城むかし探訪館のパネルより
また、官兵衛は連歌や茶の湯など当時流行していた文化にも精通し、茶会や連歌会を開いていました。官兵衛の連歌は今も残っています。
荒木村重に捕えられた1年間地下牢に入れられた際には、牢の中からわずかに見える藤の蔓を見て生きる力を得ていたと言われています。このような豊かな感性があったからこそ、1年もの間暗い地下牢で生き延びることができたのかもしれません。
(黒田家の家紋となった藤巴)
戦術に長けていただけではなく、様々な顔を持つ官兵衛の魅力に家臣をはじめ多くの人々が惹きつけられたことが想像できます。
福岡城むかし探訪館内の模型で見る、御鷹屋敷の場所です。
(江戸時代後期福岡城1/400の復元模型)
当館では、ご希望があれば、表示石の場所を記した城内の地図をお渡ししています。今回のシリーズ『福岡城内の足跡(表示石)を訪ねて』の表示石の場所を始め、他の表示石を確認することができます。この地図を片手に、新緑のなか色とりどりの花が咲いている城内を散策するのも楽しいかもしれません。
その際はお気軽にスタッフにお声かけください(^^)/