博多人形は、福岡県の伝統工芸品の一つで、福岡県の無形文化財に指定されています。
人形の発祥には諸説あるそうですが、福岡城築城の際、瓦職人・正木宗七が博多近郊の粘土を原料として城の瓦を焼いた余技に残りの粘土で素焼き人形を作り、藩主黒田長政に献上したものがはじまりとされています。
明治時代には、内国勧業博覧会やパリ万国博覧会に出品されました。その際、国内外から高い評価を受け、日本を代表する人形へと発展しました。
三の丸スクエアでは、博多人形作家協会の方が独自の解釈で作成された、軍師官兵衛の博多人形を展示しています。
こちらの作品は「土牢一年一失・活命を識る景」です。
作:熊谷 強 ・ 高山 高夫
官兵衛(当時34歳)は、織田信長にそむいた荒木村重を説得するため、兵庫県伊丹市にあった有岡城に行きましたが、捕らえられ一年以上、土牢に閉じ込められました。その時に官兵衛の世話をしたのが、荒木村重方の牢番であった加藤又左衛門(重徳)(34歳)と息子・玉松(7歳)と言われています。これらの人形を見ていると、牢番の二人が官兵衛の世話をしているうちに官兵衛の人柄にふれ、慕っているように思えます。官兵衛と心が通じ合うようになったのですね。
官兵衛は、無事解放されたあと加藤又右衛門(重徳)の子を立派な武士として育てたいと、のちに玉松を養子にして、長政と同様に養育しました。そして後に、玉松は三奈木村(現在の朝倉市内)に屋敷を構え、三奈木黒田一成として長政の側近になり、最も若くして黒田二十四騎の一人に加えられました。
こちらの作品は「備中高松城水攻め その時の景」です。
作:川﨑 修一 ・ 中野 浩
天正十年、毛利方の備中高松城を攻めている時に、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。官兵衛は豊臣秀吉を慰め、今が天下取りの好機と天下をねらうよう進言しました。泣きくずれる秀吉と冷静な官兵衛をみていると、この一瞬がとても大事な場面に思えます。秀吉が天下取りの第一歩を踏み出したのですね。
そして毛利と講和を結び、『中国大返し』で兵を上方へ。そこで光秀を討ったのです。
「愛妻幸圓と共に和歌を楽しむ景」です。
作:国崎 正行 ・ 川﨑 幸子
官兵衛は光姫(幸圓)と福岡城内の御高(鷹)屋敷(現牡丹芍薬園)や太宰府天満宮境内に隠居処を設け、連歌を楽しみました。
その歌の中に、官兵衛が黒田家と福岡の繁栄の願いを詠んだ次のような和歌があります。
— 松むめや 末ながかれと みどりたつ 山よりつづく 里はふく岡 —
きっと、官兵衛は光姫の話に楽しそうに耳を傾け、お二人で笑いながら、仲睦まじく過ごされたのですね。
博多人形は、見る角度によって、いろいろな表情を見せてくれるように感じます。現在は休館中ですが、再開館時には、ぜひ見に来てくださいね。