大ヒット中の「鬼滅の刃」で「鬼共の嫌う藤の花」として描かれている藤の花。
実は福岡藩の藩主、黒田家の家紋の一つです。
福岡藩の藩祖、黒田官兵衛が織田信長に謀反を起こした荒木村重を説得しに有岡城に乗り込んだものの、逆に城内の地下牢に閉じ込められました。そのときに励まされたのが高窓の外に見え、日ごとたくましく育っていく藤蔓(ふじづる)。
官兵衛は有岡城から救出されたのち、これにちなんで藤巴を黒田家の家紋にしたといわれています。
こちらがその写真です。
また、「鬼滅の刃」の聖地として脚光を浴びているのが太宰府市にある宝満宮竈門神社ですが、実は福岡城とも繋がりがあるのをご存知でしょうか?
こちらは当館にある福岡城の400分の1の模型です。この模型の本丸を武具櫓側(南側)から見ると、天守台の左側に鳥居と祠があります。
ここに「若一王子(にゃくいちおうじ)」が祀られていたといわれています。
「若一王子」とは神仏習合の神で、「若王子(にゃくおうじ)」ともいわれます。
いつ頃祀られたのかは明らかではありませんが、博多古図には福岡城築城以前のこの福崎の地に、「警固大明神」と「若一王子」の二つの神社が描かれていました。築城の際「若一王子」は、移築されることもなく、本丸に残されました。(「警固大明神」は築城にあたり、一時小烏神社に合祀され、1608年に御造営された神殿に祀られました。現在の「警固神社」です。)
紀伊半島南部にある熊野は修験道の一大中心地で、古くから霊場として崇拝されてきました。その熊野の三山に祀られる十二の神々のことを熊野十二所権現と呼び、「若一王子」はその中の一つです。本地仏は十一面観音で天照大神と同一視されています。
一方、竈門神社がある宝満山(竈門山)も古くから修験道として知られています。
そして、竈門山山伏の修法の場の一つが、この「若一王子の社」だったのです。
四代藩主黒田綱政42歳の厄を祓う意味もあり、天文23(1554)年に途絶えた竈門山の春の峰入りが、元禄12(1699)年3月に再興しました。
3月15日、竈門山山伏座主と山伏80人は竈門山を出発。糟屋・鞍手・宗像・那珂・御笠郡内、およそ27ヵ所で修法を行い、4月11日に福岡城内に入り、「若一王子の社」で修法を行ったとのこと。この時藩主から昆布を賜ったと「黒田家譜」に記載があります。
「鬼滅の刃」の竈門炭治郎の修法とは異なるでしょうが、福岡城ではどんな修法が行われたのか? また、修験者は炭治郎と同じ市松模様の装束だったのか?など、想像しながら城内を散策するのも楽しいのでは?
「近世福岡博多資料」によると、竈門山山伏一行は、辰の刻(午前8時頃)に上之橋を渡り、三の丸東部の広小路を進み、二の丸東御門、扇坂御門、本丸表御門を通って本丸に入ったそうです。その後、三の丸の御殿に向かい座主は大広間で応接を受け、お供の山伏達は白砂の庭上で「昆布」を賜り、御殿での儀礼を終えた一行は追廻御門から出て行ったそうです。
当館には、城内を散策されるときに地図があります。また、藤巴をデザインした福岡城の御城印も10月10日から販売を始めております。
聖地巡礼後、福岡城跡にも足を延ばしてみませんか?
スタッフ一同、お待ちしています。