鴻臚館は、今回のシリーズの(その2)でもご説明したように平安京(京都)難波(大阪)そして筑紫(福岡)の3か所に外交のために築かれた古代の迎賓館でしたが、遺跡が確認され、国の史跡に指定されているのは、当地の鴻臚館跡だけです。
さて、この場所は誰がどのようにして発見したのでしょうか。
現在、鴻臚館跡展示館が建っているあたりに存在していたと最初に提言したのは、九州帝国大学(現九州大学)医学部教授で考古学者の中山平次郎博士でした。
中山博士は、歴史的な功績も多く「金印」の出土地点を最初に推定したり、「元寇防塁」の名付け親と言われたりなど、輝かしい実績がある方でした。
中山平次郎博士
鴻臚館があった場所は、江戸時代頃までは現在の福岡市博多区中呉服町付近の管内(かんない)町と考えられていました。
平安時代に平清盛が日本で初めての人工港であると言われる「袖の湊(そでのみなと)」を呉服町のあたりに造ったという説(否定的な説もある)や、「福岡城」築城前の古い時代から呉服町方面の博多の町の方が栄えていたことなどが要因だったのかもしれません。
【呉服町の歩道上にある古地図の案内板
(赤い丸印に「湊之袖」と書かれている)】
しかしながら、中山博士は万葉集に収められた遣新羅使が筑紫館(のちの鴻臚館)に滞在中に詠んだ歌から、ヒグラシが鳴く山松が生え、そこから志賀島や荒津の岬が眺望できる立地であることなどを根拠に、福岡城跡の一画ではないかと考えられたそうです。
【手掛かりになった万葉集の一部】
この考えにそって、中山博士は当時陸軍の歩兵第二十四連隊が置かれていた福岡城跡が、ドンタクの際に一般市民に開放されるのを利用して密かに発掘し、多くの古代の瓦や陶器を発見しました。
陸軍の敷地内での独自の発掘など、今では考えられないのですが大丈夫だったのでしょうか?誰にも見つからずに出来たのでしょうか?
いいえ、「営内でスコップを持った怪しい奴がいる」と捕まったことがあったようです。
けれども、中山博士の兄が陸軍軍医少将だったため、釈放されたようです。
そのような中山博士の大発見ですが、当地が鴻臚館跡と確認され世の中に広く知られるようになるはまだまだ先のこと。昭和62年の平和台野球場の外野スタンド改修工事に伴っての本格的発掘調査まで待たなければなりませんでした。
鴻臚館跡展示館は、そんな凄いエピソードを持つ鴻臚館跡の本物の遺跡を直接見ることが出来ます。
中山博士の偉業を思いながら見学すると感慨深く感じるかもしれません。
次回のテーマは、『古代のトイレ』です。
鴻臚館とトイレ?!どんな解き明かしがあるのでしょう。乞うご期待☆