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はや解き 福岡城(その2)~福岡の本家は他所に?~

福岡城の日々 2020年05月10日(日)
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第1回目でも述べましたように、初代福岡藩主黒田長政は関ヶ原合戦で手がらをたて、徳川家康から筑前(現在の福岡)を与えられました。

ここから『福岡』という名前の歴史が始まっていきます!

それはなぜでしょう?

 

それまで、現在の福岡城のあたりは「福崎」と言われていました。

黒田官兵衛・長政親子が築城する際に、初めて「福岡」という名前が付いたのです。

 

さて、この「福岡」という名前は、どこからきたのでしょうか。

定説では、黒田家の故郷に因み付けたと言われています。

黒田家の故郷と言われる「福岡」は、現在の岡山県瀬戸内市で岡山市の東隣の市です。

現在でも黒田家ゆかりの場所があり、「福岡」という名前も多く残っています。

「福岡」の名前の本家は、岡山だったのですね。

「備中福岡城跡」というのもありますよ。

岡山なのに、福岡城。不思議ですね。

 

ところで、福岡の町は「福岡」と「博多」と両方使われていますが、どのように分かれているかご存知ですか?

福岡市の中央部、夜の繁華街である「中洲」を流れている「那珂川」。

この川から東側、古くから町人たちのまちとして栄えていたのが「博多」。

一方、官兵衛・長政が新しくお城を中心につくったまちが「福岡」でした。

 

江戸時代、その「福岡」と「博多」を分けていた門があります。

築城の際、那珂川沿いに架けた橋を渡った「福岡」側に石垣を築き作った「枡形門(ますがたもん)」です。

「博多」の町から入る人は、この門で検問を受け、武士の町「福岡」に関係のない人は入ることが出来ませんでした。

下の古地図の赤い丸印の場所が「枡形門」で、その下が明治時代の古写真です。

 

「天神」と「中洲」に架かる橋を通るときには、ここから「福岡」「博多」などを感じてみるのも楽しいかもしれませんね。

 

次回は『福岡城は 山の一部を利用したって本当?』というテーマです。お楽しみに!