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ひも解き鴻臚館(その4) ~遣唐使と航海ルート~

 

 

鴻臚館は、9世紀前半までは、唐や新羅からの使節を接待するとともに宿泊
を司る現在の迎賓館にあたるものであり、「遣唐使」や「遣新羅使」が旅支度
を整える対外公館でした。
また、出航にあたって風待ちをする大変重要な場所でもありました。鴻臚館が
まだ筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていた頃です。
9世紀後半以降になると、鴻臚館の主役は唐の商人などに移り、中国との貿易の
舞台となりました。11世紀後半に貿易拠点が博多に移るまで、日本最大の国際交
流の拠点でした。

 

さて、今回の「ひも解き」は、日本古代の朝廷が唐に派遣した使節、「遣唐使」
についてです。

 

(鴻臚館跡展示館にある遣唐使船の模型)

 

 

「遣唐使」は630年に犬神御田鍬(いぬがみのみたすき)らを最初に、
894年に菅原道真の建議で廃止されるまで20回計画され、うち15回が派遣され
ました(ただし、回数については諸説あります)。

中国の先進的な技術や政治制度、文化、仏教等の経典の収集を入手することが
主な目的でした。遣唐使は、大使・副使をはじめ留学生・学問僧など
約400人~500人が4隻の船に分乗し、出発しました。
天台宗を開いた最澄と真言宗を開いた空海はともに、804年の遣唐使で入唐を
果たしました。唐の先進的な仏教の教義を取り入れることで、法力の効験が高
まり、国を守ることにつながると朝廷は考えたようです。

 

4船で出航し空海が乗ったのは第1船で、最澄は第2船に乗りましたが、第3船と
第4船は遭難したため、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみでした。
最澄と空海が乗り込んだ2船だけが無事に到着したのですね。
東シナ海横断は遭難記録(複数回)があるなど極めて危険なことから、出発日を
変えるなど一隻でも到着できるよう変更していったようですが、当時唐への航海
はとても大変だったと想像できます。
そして最澄と空海が唐への出発にあたり、ここ「鴻臚館」から旅立ったかもしれ
ないと思うと大変感慨深いものがあります。

 

遣唐使船には3つの航路がありました。7世紀中頃の航路だったとされる北路。
8世紀~9世紀中頃までの航路だったとされる南路。そして8世紀代に開発された
航路で主に復路(帰路)に利用した南島路です。(南島路についてはなかったと
する説や、天候で流された結果とする説もあります。)

 

 

(遣唐使船航路図)

 

それにしても、約1400年前に「遣唐使」という歴史的な外交使節があり、当地に
「鴻臚館」が存在していたというのは大変素晴らしいことですね。
当時の「遣唐使」に思いを馳せ鴻臚館跡を散策するのも楽しいかもしれません。
その際は是非「鴻臚館跡展示館」にもお立ち寄りください。
次回は、鴻臚館の場所を発見した人物についてです。大変興味深い人なので、
楽しみにしてください!

 

 

ひも解き鴻臚館(その3) ~大宰府政庁との繋がり~

7世紀後半に九州の政治的な統括・対外交渉の窓口・貿易の要として、

筑前国(現在の福岡県北西部)に地方行政機関の大宰府が置かれました。

この大宰府の政務を取り扱っていたのが『大宰府政庁』でした。

 

みなさんは大宰府政庁の「大宰府」と、太宰府市の「太宰府」の違いが

分かりますか?

一般には、古代律令時代の役所およびその遺跡に関する「大宰府」、

中世以降の地名や太宰府天満宮については「太宰府」と明記されるように

なりました。

 

大宰府政庁は「遠の朝廷(とおのみかど)」とよばれ、

(中央政権)からは離れていましたが、

権限の大きさからそう呼ばれ、アジアとの外交と防衛などの大きな役割を担っていました。

万葉集の柿本人麻呂の歌にも「遠の朝廷」と表現されています。

平城京(平城京は唐の長安を参考)を模して造られ、碁盤の目状の街が広がり、

長官から雑用係も含めて1,000人以上の人が働いていたとも言われています。

ちなみに元号「令和」で脚光を浴びた大伴旅人は、大宰府政庁へ長官として赴任し

その手腕を発揮していました。

 

この大宰府の出先機関の一つが鴻臚館でした。「蕃客所」に属していて諸外国との

外交施設として、また、この辺りの警固(外敵から国を守る)を行う

「警固所」にも属していたようで、ともに大宰府を補助するための施設でした。

 

 

ところで、かつて大宰府政庁と鴻臚館とを結ぶ道があったことを、皆さんはご存じですか?

この道は官道といわれており、国によって整備・管理・維持がなされ現在の高速道路の

ようなものでした。

 

官道は中央集権と地方間の情報伝達手段として整備されたもので、こちらの官道は

外国からの使節団の到着を、鴻臚館から早馬を走らせ一刻も早く大宰府に伝達する

などといった大きな役割を担っていました。

 

この官道には、大宰府の防衛のため造られた「水城」において、東門と西門が整備され、

それぞれの門から博多湾岸方面に二本が並行して伸びていました。

このうち、鴻臚館と大宰府とを結ぶ道は西門を通る官道で、

幅約10m、長さは1316㎞の道になっていました。

その当時、早馬(時速20)で約40分、

徒歩(時速4)で約3時間20分かかっていたそうです。

外国使節や唐、新羅への遣使・留学生はこのルートで大宰府へ向かっていました。

 

ちなみに東門を通るルートは、大宰府と博多湾岸とを結んでおり、

朝廷から派遣された高級官人(国家公務員など)が利用していたそうです。

歴代の大宰府長官らもここを通ったのでしょうか?

このように西門ルートと東門ルートとでそれぞれの役割がありました。

現在はそのうちの一部が市道として活用されています。

次回のテーマは『遣唐使』です。

遣唐使と鴻臚館はどのような繋がりがあったのでしょうか?

お楽しみに~!

 

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