黒田長政と「腹立てずの会」

福岡城の日々

黒田長政は官兵衛の嫡男で、関ケ原の戦いでの活躍により筑前国50万余石(後に52万余石)を徳川氏から与えられ福岡藩の初代藩主となった人物です。

また、1601年から官兵衛と福岡城の築城に着手し、7年で完成させました。城内は、天守台、本丸、二の丸、及び三の丸の4層に分かれており、長政は本丸が完成すると三の丸から本丸に移り、「本丸御殿」を居宅としました。「本丸御殿」は、初めは城主やその家族の日常生活や藩内の政治を行う場所でしたが、二代目藩主忠之が新たに三の丸に御殿を建てたあとは、世襲儀式や祭礼の場となりました。

(福岡城むかし探訪館内パネルの長政像)

長政は「本丸御殿」内にあった「釈迦の間」で、毎月一度信頼のおける家臣ら数名集め「異見会」と称して忌憚(きたん)のない意見交換会を行っていました。この意見交換会を、「腹立てずの会」とも言ったそうです。会の中で、どんなことを言っても決して言った人に恨みを残さないこと,また、後で他人に話さないこと,無論その場で腹を立てないこと。これらを、相互で誓ったそうです。

そんなある日、皆のまえで謡曲(ようきょく:謡曲とは能の台本で、それに節をつけてうたうこと)を披露し感想を聞いていた長政に対して、「本当は殿のうたは下手で、聞けたものではなく対応に困っています」との意見が家臣から出たとか。一瞬長政は青ざめましたが、怒ることなくその後家臣のまえでぱったりと、謡曲をうたうことをやめたと言われています。

この逸話は、長政の多面的な人柄がよく表れているのではないかと思いました。関ケ原の戦いで、自ら切り込み隊長として攻撃を加える猛将である反面、小早川秀秋などの諸将の寝返りを交渉したとされ、調略家でもあった長政。家臣の意見に耳を傾ける懐の深さや謙虚さがあったからこそ、関ケ原の戦いで多大なる功績をあげることができたのかもしれません。

この「腹立てずの会」の話を知り、私はますます長政のことが知りたくなりました。

(本丸御殿のCG)

黒田官兵衛という偉大な父を持った長政がどのようなことを考え、どのような気持ちで福岡城で過ごしていたかを想像し、福岡城跡をお散歩するのはいかがでしょうか(^^)/

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