福岡城内の足跡(表示石)を訪ねて(その4)~御時櫓跡~

福岡城の日々

今回は、御時櫓跡の表示石です。表示石を探してみますと、本丸の西北隅の石垣の上にひっそりと置いてありました。普段、天守台を目指して登城していることが多いため気づかれない方も多いと思われます。

     

御時櫓は名前の通り「時」を告げる役目の大きな太鼓が置かれ、城内に「時」を知らせ、また非常時にも太鼓を打ち鳴らしていたそうです。
この場所は、幅14.5メートル、奥行き18メートルです。本丸の隅にありますが、意外と広さを感じます。この御時櫓は二層の櫓だったようです。別名、時打櫓や時計櫓とも呼ばれていました。

御時櫓の中にあった太鼓の話になりますが、この太鼓、実は、始めから御時櫓の中にあったものではなく、当初は、本丸の南西側に位置している裏御門横の西に隣接している太鼓櫓の中に置かれていました。こちらも二層の櫓で、「時」を告げ、非常時にも打ち鳴らしていたそうです。しかし、太鼓の直径は約1.5メートルもあり、太鼓の振動で石垣が緩むということで、表示石のある御時櫓へ太鼓を移したそうです。

太鼓櫓にも別名があり、御時櫓へ太鼓を移したということで、「古」を付けて古時打櫓跡(こときうちやぐら)。そして、太鼓櫓で時を鳴らす係りの一門の人の名前を付けて、伊之助櫓。また、本丸裏門櫓とも言われています。櫓跡の表示石はなく、石垣のみになっています。

これらを「福岡城むかし探訪館」にある模型でみると、次のようになっています。

太鼓櫓から御時櫓へ太鼓を移動した黄色の矢印です。
赤色の(  )は別名です。模型を参考に想像してみてください。

さて、少し混乱しそうな、この二つの櫓の石垣についてです。
この写真は、御時櫓跡と太鼓櫓跡(古時打櫓跡)の石垣です。
どちらが、どちらの石垣だと思われますか?

 

①が御時櫓跡で、梅園から見上げた写真。②が太鼓櫓跡(古時打櫓跡)で、裏御門跡の下方から見た写真です。
太鼓を移した①の御時櫓跡の石垣の方が大きいですね。
御時櫓跡の石垣はとても高く(約6メートル)、下から見る石垣は迫力があります。
太鼓を鳴らしても石垣は緩むことなく、伊之助一門の係りの人も、安心して太鼓を鳴らすことができたでしょう!!

そして、太鼓櫓(古時打櫓)ですが、2回移築されています。
まず、大正5年、本丸裏御門や武具櫓などとともに、浜の町の黒田別邸に移されました。その後、浜の町の黒田別邸に移された多くの建物は戦災によって焼失しましたが、太鼓櫓(古時打櫓)は焼けずに残った!!という記事があります。昭和31年に移築された、現在、下之橋御門隣の(伝)潮見櫓と称されている櫓が、近年の調査で太鼓櫓(古時打櫓)だったと推定されています。

こちらの2枚の写真は、③はCGで再現した江戸時代の頃の太鼓櫓(古時打櫓)と本丸裏御門です。④は、現在の(伝)潮見櫓と下之橋御門です。

 

2つの写真を比べてみますと、どちらも御門の横に太鼓櫓(古時打櫓)があります。
③の写真はCGですので、実際の場所には、櫓も御門もありませんが、④の写真にある、下之橋御門と(伝)潮見櫓付近は、現在、江戸時代の福岡城の様子をもっとも感じることのできる場所になっています。

明治通りから(伝)潮見櫓を見ていただくと、さらにCGで再現した太鼓櫓(古時打櫓)と同じ櫓だと実感できると思います。太鼓櫓(古時打櫓)が時を超えて、福岡城に戻ってきたことには感慨深いものがあります。いまの福岡城にとって、大切な櫓の一つですね。

福岡城むかし探訪館の展示室のガラス窓に太鼓櫓の古写真があります。
写真の左側が太鼓櫓(古時打櫓)、右側が裏御門です。館内からガラス窓を見てみると、
レトロな古写真と、後ろに見える外の鴻臚館跡広場の景色が重なり、とてもおもしろいです。

現在、時計やアラーム機能は常に傍にあって当たり前の物ですが、江戸時代は、城内は太鼓の音で日常生活を過ごしていたのですね。

御時櫓跡の石垣前には、梅園もあり、現在、梅の花が咲き誇っています。とても良い香りもします。ぜひ、梅の観賞とともに、太鼓櫓跡(古時打櫓跡)の石垣、御時櫓跡の表示石、 (伝)潮見櫓も散策がてら、ご覧ください。
福岡城むかし探訪館の模型やガラス窓も、ぜひ見に来てくださいね。

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