ひも解き鴻臚館(その3) ~大宰府政庁との繋がり~

福岡城の日々

7世紀後半に九州の政治的な統括・対外交渉の窓口・貿易の要として、

筑前国(現在の福岡県北西部)に地方行政機関の大宰府が置かれました。

この大宰府の政務を取り扱っていたのが『大宰府政庁』でした。

 

みなさんは大宰府政庁の「大宰府」と、太宰府市の「太宰府」の違いが

分かりますか?

一般には、古代律令時代の役所およびその遺跡に関する「大宰府」、

中世以降の地名や太宰府天満宮については「太宰府」と明記されるように

なりました。

 

大宰府政庁は「遠の朝廷(とおのみかど)」とよばれ、

(中央政権)からは離れていましたが、

権限の大きさからそう呼ばれ、アジアとの外交と防衛などの大きな役割を担っていました。

万葉集の柿本人麻呂の歌にも「遠の朝廷」と表現されています。

平城京(平城京は唐の長安を参考)を模して造られ、碁盤の目状の街が広がり、

長官から雑用係も含めて1,000人以上の人が働いていたとも言われています。

ちなみに元号「令和」で脚光を浴びた大伴旅人は、大宰府政庁へ長官として赴任し

その手腕を発揮していました。

 

この大宰府の出先機関の一つが鴻臚館でした。「蕃客所」に属していて諸外国との

外交施設として、また、この辺りの警固(外敵から国を守る)を行う

「警固所」にも属していたようで、ともに大宰府を補助するための施設でした。

 

 

ところで、かつて大宰府政庁と鴻臚館とを結ぶ道があったことを、皆さんはご存じですか?

この道は官道といわれており、国によって整備・管理・維持がなされ現在の高速道路の

ようなものでした。

 

官道は中央集権と地方間の情報伝達手段として整備されたもので、こちらの官道は

外国からの使節団の到着を、鴻臚館から早馬を走らせ一刻も早く大宰府に伝達する

などといった大きな役割を担っていました。

 

この官道には、大宰府の防衛のため造られた「水城」において、東門と西門が整備され、

それぞれの門から博多湾岸方面に二本が並行して伸びていました。

このうち、鴻臚館と大宰府とを結ぶ道は西門を通る官道で、

幅約10m、長さは1316㎞の道になっていました。

その当時、早馬(時速20)で約40分、

徒歩(時速4)で約3時間20分かかっていたそうです。

外国使節や唐、新羅への遣使・留学生はこのルートで大宰府へ向かっていました。

 

ちなみに東門を通るルートは、大宰府と博多湾岸とを結んでおり、

朝廷から派遣された高級官人(国家公務員など)が利用していたそうです。

歴代の大宰府長官らもここを通ったのでしょうか?

このように西門ルートと東門ルートとでそれぞれの役割がありました。

現在はそのうちの一部が市道として活用されています。

次回のテーマは『遣唐使』です。

遣唐使と鴻臚館はどのような繋がりがあったのでしょうか?

お楽しみに~!

 

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