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福岡城跡に秋の訪れ

 

9月に入り少しずつ秋の気配を感じるようになってきました。

旧暦で9月は「長月」とも言われていました。

日増しに夜が長くなるので、「夜長月」から「長月」になったとも言われて

います。

さて、福岡城跡でも秋を感じるこんな風景が見かけられます。

 

(桐ノ木坂と淡く色づいた木々)

 

(三の丸広場のコスモス)

 

(多聞櫓と赤く色づき始めた木の葉)

 

ちなみに、福岡城の築城のきっかけともなった天下分け目の戦「関ケ原の戦い」

は旧暦の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)のまさに「長月」でした。

関ケ原(岐阜県不破郡関ケ原町)が主戦場となり、徳川家康を総大将とし福島正則

や黒田長政等が中心となった東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成等が中心とな

った西軍で戦いました。東軍が勝利し、ここでの活躍などにより長政は徳川家康か

ら筑前国の50万余石(のちに52万余石)が与えられました。

 

こうして1601年から7年かけて黒田長政と父官兵衛は福岡城を築くとともに、

街道や宿場町を置き城下町をつくり始めました。福岡の発展は既にこの頃から始

まっていたのかもしれませんね。

 

(天守台から見た景色)

 

その後様々な歴史を経て、今ここ福岡城跡でこのような綺麗な秋の風景を見る

ことができ、とても感慨深い気持ちになります。

皆さまも小さな秋や歴史を感じながら福岡城跡をお散歩してみませんか(^^)/

 

平和台陸上競技場

 

2021年7月22日は二十四節気の大暑。暑さが最も厳しくなる頃となりました。

城内の木々は、緑が濃くなり青々と生い茂っています。また、お堀の水辺では蓮の花が咲いています。蓮の開花は早朝から、お昼過ぎには閉じてしまうので、少し早起きして散策されてみてはいかがでしょうか。

 

23日、東京ではオリンピック開会式が行われるようです。

平和の祭典にふさわしく開催されることを願っています。

 

ここ福岡城内には、平和への願いが込められた「平和台陸上競技場」があります。5月11日、オリンピック聖火リレー点火セレモニーが開催された場所でもあります。緊急事態措置にともない無観客の点火セレモニーとなり、日本で初めての方式として、ステージ上で隣にいるランナーのトーチに聖火を灯し、聖火皿までつなぎました。

 

 

さて、なぜ福岡城跡地に陸上競技場があり、そして平和台と名付けられたのでしょうか。

 

明治4年、廃藩置県後、福岡県庁が置かれ、同9年に移転しました。

その後は陸軍の駐屯地でした。さらに、太平洋戦争後、進駐軍のための宿舎の建設が予定されていました。

『福岡市史 特別編 福岡城』によれば、昭和23年の第三回国民体育大会の誘致を図り、県や市の関係者が占領軍司令部に折衝を重ねて実現にこぎつけ、城内に陸上競技場・拳闘場・サッカー場・ラグビー場を建設して、同23年10月18日に竣工式を挙行しました。その際、これらの運動施設を合わせて「福岡平和台総合運動場」と命名しました。兵舎の跡地に建設した運動場だったため「平和台」という名が付けられたといいます。

当時の福岡国体事務局長、岡部平太氏が、国体会場としての使用を進駐軍と交渉する際、この城内の地について「兵(つわもの)どもの夢の跡をスポーツによる平和の台にする」と述べて、説得したことに始まるといわれているそうです。

 

平和台陸上競技場内の西門の両脇には、共に平和台を完工し第三回国民体育大会を誘致した、第17・18代福岡市長である三好弥六氏と、平和台の名付け親である岡部平太氏の銅像があります。

 

                     (三好弥六氏銅像)                                                     

 

                    (岡部平太氏銅像)

 

また、舞鶴公園北側には、福岡聨隊の跡記念碑があります。

 

             (福岡聨隊の跡記念碑)

 

さらに、時代は江戸時代に遡ってみます。

平和台陸上競技場の場所は、当時どのようになっていたのでしょうか。

 

福岡城むかし探訪館では、江戸時代後期の福岡城を400分の1の復元模型で再現しています。

また、三の丸スクエアには、現在の壁面航空写真があります。これらを並べてみると…

 

  (福岡城むかし探訪館 福岡城1/400復元模型)

 

 (三の丸スクエア内 航空写真)

 

福岡城は三の丸、二の丸、本丸、天守台の四層構造となっています。

復元模型の中にある赤い印は、現在の福岡城むかし探訪館の場所にあたります。平和台陸上競技場は探訪館の西側ですので、当時の三の丸北側に位置します。そこには、黒田家の重臣が居住する屋敷(家老屋敷)が並んでいたようです。

 

福岡城は時代の推移とともに変容し、時代に即したものが加わっていきました。

その一つである、平和台陸上競技場。平和台という名には、スポーツの発展と平和への願いが込められていたのですね。

 

福岡城 6月の連想ゲーム?!

 

緊急事態宣言も解除になり、新型コロナウイルスのワクチン接種をされた方も少しずつ周りで耳にするようになりました。

 

「新型コロナウイルスのワクチン」と聞いて6月つながりで連想したのが………

 

昨年の6月、九州大学と九州大学発のベンチャー企業であるKAIKO(福岡市)が共同で新型コロナウイルスのワクチン候補となるたんぱく質の開発に成功したとのニュース。

なんと、蚕から作るそうです。

 

次に「お蚕さま」と聞いて連想したのは………

 

NHK の大河ドラマ「青天を衝け」。

 

主人公の渋沢栄一の実家では「お蚕さま」を飼っていたそうで、第1話の「お蚕ダンス」は印象的でした。

 

その「お蚕さま」の餌といえば………

 

「桑」。

 

栄一が幼いころから京に上がるまでの青春篇の舞台となったのが、桑畑が広がる血洗島村。何とそのセットは東京ドーム5個分の面積があるそうで、2020年の1月から約3,000本もの桑を実際に植えて造られたものだそうです。

 

「桑」と聞いて、「福岡城三の丸東部の桑の栽培‼」と連想されたお方はかなりの福岡城通!!

 

実は「福岡城 6月の出来事」で頭に浮かんだのが「筑前竹槍一揆」でした。

 

詳しく調べようと『福岡市史 特別編 福岡城』を読んでいたら、「桑茶政策と三の丸東部」にその記述を見つけました。

 

『明治初年福岡県養蚕其他ニ関スル記録』によりますと、福岡県では明治5年2月に「養蚕之道」を開くことが示され、それを受けて、福岡県庁の租税課に勤務していた元福岡藩士の上野就賢は3月に本丸を除く福岡城内の空き地(主に三の丸東部の大身屋敷跡地と思われます。)に桑苗を栽培する計画をたてました。

 

その結果明治5年末には城内に17~18万本の桑苗が栽培されていたそうです。

 

ところが、翌年の明治6年6月に「筑前竹槍一揆」が起きました。

 

嘉麻郡高倉村(現・飯塚市)の農民と米相場師とのいさかいを発端に参加者10万人ともいわれる一揆が旧筑前国全域に拡大し、福岡城内にあった県庁にも突入しました。今から148年前の今日、6月21日のことでした。

 

その結果、それまでの栽培の成果は無になり、城内における桑苗栽培の試みは中途で終了したそうです。

 

その時の傷跡が今も下之橋御門に残っています。

 

 

このあたりの傷ではないかと言われています。

 

 

もし一揆がおきずに、そのまま桑苗が栽培され続けていたら、第二の渋沢栄一が福岡からも誕生していたのでは………そんなことを連想した6月となりました。

 

黒田長政と「腹立てずの会」

 

黒田長政は官兵衛の嫡男で、関ケ原の戦いでの活躍により筑前国50万余石

(後に52万余石)を徳川氏から与えられ福岡藩の初代藩主となった人物です。

また、1601年から官兵衛と福岡城の築城に着手し、7年で完成させました。

城内は、天守台、本丸、二の丸、及び三の丸の4層に分かれており、

長政は本丸が完成すると三の丸から本丸に移り、「本丸御殿」を居宅としました。

「本丸御殿」は、初めは城主やその家族の日常生活や藩内の政治を行う場所でし

たが、二代目藩主忠之が新たに三の丸に御殿を建てたあとは、世襲儀式や祭礼の

場となりました。

 

(福岡城むかし探訪館内パネルの長政像)

 

長政は「本丸御殿」内にあった「釈迦の間」で、毎月一度信頼のおける

家臣ら数名集め「異見会」と称して忌憚(きたん)のない意見交換会を

行っていました。この意見交換会を、「腹立てずの会」とも言ったそうです。

会の中で、どんなことを言っても決して言った人に恨みを残さないこと,

また、後で他人に話さないこと,無論その場で腹を立てないこと。

これらを、相互で誓ったそうです。

そんなある日、皆のまえで謡曲(ようきょく:謡曲とは能の台本で、それに

節をつけてうたうこと)を披露し感想を聞いていた長政に対して、

「本当は殿のうたは下手で、聞けたものではなく対応に困っています」との

意見が家臣から出たとか。一瞬長政は青ざめましたが、怒ることなくその

後家臣のまえでぱったりと、謡曲をうたうことをやめたと言われています。

この逸話は、長政の多面的な人柄がよく表れているのではないかと思いました。

関ケ原の戦いで、自ら切り込み隊長として攻撃を加える猛将である反面、

小早川秀秋などの諸将の寝返りを交渉したとされ、調略家でもあった長政。

家臣の意見に耳を傾ける懐の深さや謙虚さがあったからこそ、関ケ原の戦いで

多大なる功績をあげることができたのかもしれません。

この「腹立てずの会」の話を知り、私はますます長政のことが知りたくなり

ました。

 

(本丸御殿のCG)

 

黒田官兵衛という偉大な父を持った長政がどのようなことを考え、どのような

気持ちで福岡城で過ごしていたかを想像し、福岡城跡をお散歩するのはいかが

でしょうか(^^)/

 

初夏の城内

 

気付くと桜や藤などの春の花も終わって、すっかり緑が美しい季節になりました。

気候的に、またコロナ禍ということもあってゆったりと舞鶴公園や大濠公園に散策に訪れる方が多くなりました。

 

 

 

 

 

 

  鴻臚館広場の蜂もせっせと蜜集め 桜もすっかり濃い緑の葉が茂っています

 

今、お城を囲む堀では、冬に枯れた蓮を取り除いて綺麗になった水面に、可愛らしい新芽が顔をのぞかせるようになっています。

 

新芽は初め、葉の両端がくるくると巻かれた細長い状態で水面に上がってきます。

それが時間の経過とともに少しずつ開いて、お馴染みの丸い形の葉となります。

開いてすぐは手のひら位の大きさなのですが、日々成長を遂げると両手で輪を作った位、もしくはそれ以上の大きさにもなります。

その成長の速さと葉の大きさには、力強い生命力を感じます。

 

そしてみるみる内に堀が蓮の葉で埋め尽くされるのには、毎年本当に驚かされます。

 

今はまだ水面にぽつぽつと葉が見える程度ですが…

きっとあっという間にこんな状態に…

蓮の花がご覧いただけるのは、毎年7月初旬頃~となっていますが、近年は少し早くて6月中旬頃から、花の姿を見掛けることもあるように思います。

花の時期も勿論楽しみですが、春から初夏にかけてのこの短い時期にしか見られない、貴重な景色も是非楽しまれて下さい。

 

さて、福岡城内(舞鶴公園内)にあります、福岡城むかし探訪館、鴻臚館跡展示館、及び三の丸スクエアは発出された新型コロナウィルス感染症緊急事態宣言に伴い、5月31日(月)まで休館することになりました。

当面の間ご不便をおかけしますが、何卒ご理解の程、よろしくお願い致します。

 

三の丸スクエアのご紹介

 

桜の時期も終盤となり、福岡城周辺は新緑の季節へと移り変わってゆきます。

緑のグラデーションの中を散策するとぽかぽか陽気も重なり、

とても気持ちのいいシーズンです。

今回は散策中のおすすめスポット『三の丸スクエア』をご紹介します。

 

 

 

                   

平和台陸上競技場の西側の横断歩道から、母里太兵衛長屋門が見えてきます。

 

こちら側に渡っていただくと名島門が見えてきます。

門をくぐって左側にあるのが『三の丸スクエア』です。

 

 

 

『三の丸スクエア』は旧舞鶴中学校跡地にあり、

館内では福岡城、鴻臚館の歴史をパネルで紹介しています。

  

 

 

奥に進んでいただくと、福岡城・鴻臚館みどころマップが!

公園内を散策される前のご案内としても活躍してくれます。

 

 

また、館内には『福岡みんなの城基金』に

募金してくださった方々の芳名板もございます。

中にはこのような方々のお名前も‥

みなさんも探してみてくださいね!

 

 

 

三の丸広場を抜けると大濠公園が見えてきます。

もう少し進むと大きな堀や福岡タワーも見えますよ。

 

 

これからは藤や牡丹・芍薬、つつじなど舞鶴公園は花であふれるシーズンになります。

みなさんも散策がてら三の丸スクエア、

また福岡城むかし探訪館・鴻臚館跡展示館へお立ち寄りください。

 

スタッフお気に入りの場所 ~その6~

 

シリーズ最終回のお気に入りの場所は、福岡城の西側に南北に長く続く石垣です。

 

「福岡城跡」の石碑から松ノ木坂を上っていく石段も大好きです。秋には銀杏の落ち葉で黄色い絨毯のような景色になります。

 

 

が、今回はあえて松ノ木坂ではなく、石碑の右側に進むと見えてくるお気に入りの風景を紹介します。

 

 

まず、すぐに現れるのが石垣とベンチの風景。

 

 

さらに道路沿いを進むと、ツツジ園の奥の大きな木と石垣。

 

 

舞鶴公園管理事務所にお尋ねしたところ、この木はクスノキで樹齢ははっきりとは分からないそうですが、この大きさだと、100年は経っているのでは?とのことでした。

石垣よりも高く成長していくクスノキの生命力と、崩れることもなくこの場所で木々の成長を見守っている石垣の二つから、パワーをもらう場所でもあります。

 

さて、この石垣はいったん桐ノ木坂のところで上にと方向が変わりますが、逆に上から降りてきた石垣が南へと延びていきます。

 

 

そしてこの角から菖蒲園までの石垣は、刻印探しが楽しめる場所でもあります。

じっくり目を凝らしながら探すと、アルファベットのDやひし形、ハートの刻印を見つけることができます。

 

 

 

 

刻印がある石を探すのには時間がかかりますが、下の写真のように歯形のような跡がついた石は、ここの石垣に限らず、城内のいたるところで見つけることができます。

 

 

これは矢穴といい、石に穴をほり、そこにくさびを入れてたたいて割ったためにできた跡です。

 

そしてここの石垣では、その穴を掘る印が付いた石や、穴まで掘ったものの割らずに使用した石を見ることができます。

 

 

 

このように、石を観察しながら歩いていくとちょっとした発見があるのも、お気に入いりの理由です。

 

そして一番のお気に入りは、何と言っても多聞櫓と石垣の風景。

 

 

お城らしさを感るスポットです。春の桜に始まり、つつじや菖蒲の花、新緑が、そして秋には紅葉がこの景色に彩りを加えてくれます。冬には石垣そのものの美しさもしっかりと見ることが出来きます。

 

いつ来ても違う表情を見せてくれる福岡城。その魅力をスタッフ一同これからも心をこめて伝えてまいります。

 

どうぞお楽しみに‼

スタッフお気に入りの場所 ~その5~

 

「スタッフお気に入りの場所」、第5回目は「上之橋(かみのはし)」です。

福岡城内へと通じる3つの橋のうち、江戸に近く、お殿様や客人のための公式の出入口だった「上之橋」。福岡城の表玄関であるこの場所は、巨大な堀と堂々とした橋が、鉄壁の守りを誇る福岡城の威厳を感じさせてくれます。

 

 

上之橋は現在全て石組みですが、昔は中央部分が木組みになっていました。敵が攻めてきた時に、自ら橋を焼き落として城内に入らせないための仕掛けです。さらに橋の一画には、排水の仕組みもあったそうです。

この上之橋から、広―いお堀を西の方角へと望む景色が絶景です。

 

 

奥の方には、福岡タワーもバッチリ見えます!

 

 

桜の名所として有名な福岡城跡。上之橋からは、お堀に映える桜も堪能できます。

 

 

桜だけではないですよ!福岡城跡は、蓮の花の名所でもあります。

夏、堀が一面に蓮の葉で覆い尽くされる様子は圧巻です。

 

 

 

現代的なビル群と調和したお堀の風景を楽しめるこの場所が、私のお気に入りです。

 

さて、私の上之橋での楽しみをもう一つ。

橋を渡った後は、右手に曲がり城内へと進む方が大半だと思われます。が、

こちらは後世に造られた道で、実は、城内へと続く本当の道があるのです。

正面は突き当りに見えますが、まっすぐ進むと・・・

 

 

立派な桝形虎口(ますがたこぐち)が現れます。敵を囲い込み、勢いを削ぐための空間です。

 

 

左手にはかつて上之橋御門(かみのはしごもん)が建っていました。

こちらが城内へと続く正式な入口です。

 

 

この道を通る方はほとんどいないため、立派な石垣に囲まれた巨大空間を独り占めできます。

福岡城跡へお越しの際は、上之橋からの景色を堪能した後、こちらの道を通って城内へと入ってみてください。正式な入口から城内へ入ると、今までとは違った風景が見えるかもしれません。

 

桜の開花が楽しみな季節となりました。お花見ついでに「福岡城むかし探訪館」へもどうぞお立ち寄りください。スタッフ一同お待ちしております。

 

スタッフお気に入りの場所~その4~

 

第4回は花好きスタッフのお気に入りの場所です。

福岡城跡には四季を通じて様々な花が咲きます。

石垣をバックに見る桜や、お堀に咲く蓮の花。黒田如水の御鷹屋敷跡の

牡丹・芍薬園等素敵な場所が沢山あります。

この季節は満開の梅の花を観ることが出来る二の丸の梅園が私は大好きです(^^)/

 

扇坂跡の階段手前から、もう梅のほのかな香りがしてきます。

 

そして階段を上ると、一面に梅の花の風景が飛び込んできます。

 

福岡城跡の梅園では、様々な種類の梅を観ることが出来ます!

 

 

雪と石垣と梅のコントラストも素敵です。

 

ところで、梅園に入る際のこの扇坂跡ですが、かつて扇坂には御門がありました。

「御門法」によると大扉は常に閉ざされたおり、小扉は朝六つ時(午前6時頃)

に開き暮れ六つ時(午後6時頃)に閉まる規定があったようです。

門を閉めた後の鍵は、本丸玄関番に預けるようになっていました。大扉が常に

閉ざされていて番人が置かれず、見廻りに規定もないことから人の往来はそう

多くなかったと考えられています。

また、福岡城には他にも松ノ木坂御門、桐木坂御門等の御門がありましたが、

桐木坂御門のように日中大扉の片方が開かれ、定番が置かれていた御門も

ありました。

このように門によってそれぞれの規定が異なっていたようです。

 

(CG作成の扇坂)

 

そんな当時のことを想像しながらお散歩すると、より楽しい時間を過ごせるかも

しれません。

また、お散歩の前には「福岡城むかし探訪館」に立ち寄られ、福岡城の大型再現

模型などで、より一層当時の想像を膨らますのはいかがでしょうか(^^♪

 

スタッフお気に入りの場所 ~その2~

第2回目は、石垣好きスタッフのお気に入りの場所です!

当ブログ内でも、福岡城は石垣が立派で「石城」と呼ばれたことや、築城時からの石垣が広く綺麗に残っていることなどを書いてきました。
それぞれの場所での石垣も美しいのですが、中でも常に高さを実感出来る裏御門付近の石垣が一番のお気に入りです☆

 

具体的な場所は、松の木坂を登り しだれ桜並木が途切れると本丸へと向かう途中に裏御門跡があります。その右手にある石垣です。
ちなみに、しだれ桜並木をまっすぐ進むと多聞櫓です。

 

高い石垣は、天守台や城内南側など他にもあるのですが、ここの石垣は高いだけでなく見あげた感じや周りの雰囲気も含めてとても圧巻です。
桜など四季折々の植物を楽しむことの出来る福岡城跡ですが、ここの場所は季節に左右されることなく1年を通じてずっと石垣の壮大さを感じることが出来ます。
天守台の裏側へと続く石畳の道とのコントラストも素晴らしいです!

 

更に、天守台などと重なる石垣も綺麗に見ることが出来ます。
(赤い丸の部分が天守台です)

 

まもなく梅の花や桜の花が咲き始めますが、花だけでなく少し顔を上げて黒田官兵衛・長政親子が造った立派な石垣も見てもらえると嬉しいです。

 

スタッフお気に入りの場所 ~その1~

 

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

いつもご覧いただいているブログですが、今回から6回にわたって

スタッフお気に入りの場所をご紹介します。

 

第一回目は、鴻臚館横の小路です。

 

 

鴻臚館西側の小路は、福岡城むかし探訪館・鴻臚館跡展示館から、

けやき通りへの抜け道となります。

あまり知られていませんが、石垣の迫力をより間近に感じることができます。

特に石垣をじっくり見るには、木の葉が落ちたこの季節が一番見えやすいです。

 

     

上記の写真の石垣はかくばった部分があります。(右写真)

ここは江戸時代に高櫓があった場所です。

ある時期において堅炭が納められており、炭櫓ともよばれていました。

鴻臚館広場から見てもその角の鋭角さが見て分かります。(左写真)

 

 

また、この先は木々のアーチがあり、

季節によって四季折々の風景も併せて楽しんでいただけます。

                   

桜と新緑、雪の季節では、同じ場所でも雰囲気が違って見えますね。

 

 

この道を先に進んでけやき通り側に抜けていくと

右側に壮大な土塁を見ることができます。

上から光が差し込んでなんとも幻想的な風景です。

         

ここを抜けるとけやき通りに到着です。

一つの道でこの様に雰囲気が変わるので、季節ごとに歩き楽しんでいます。

 

みなさんもお散歩がてら

お好きな場所を探してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

福岡城と「鬼滅の刃」その聖地

 

大ヒット中の「鬼滅の刃」で「鬼共の嫌う藤の花」として描かれている藤の花。

実は福岡藩の藩主、黒田家の家紋の一つです。

 

福岡藩の藩祖、黒田官兵衛が織田信長に謀反を起こした荒木村重を説得しに有岡城に乗り込んだものの、逆に城内の地下牢に閉じ込められました。そのときに励まされたのが高窓の外に見え、日ごとたくましく育っていく藤蔓(ふじづる)。

官兵衛は有岡城から救出されたのち、これにちなんで藤巴を黒田家の家紋にしたといわれています。

こちらがその写真です。

 

 

また、「鬼滅の刃」の聖地として脚光を浴びているのが太宰府市にある宝満宮竈門神社ですが、実は福岡城とも繋がりがあるのをご存知でしょうか?

 

こちらは当館にある福岡城の400分の1の模型です。この模型の本丸を武具櫓側(南側)から見ると、天守台の左側に鳥居と祠があります。

 

 

ここに「若一王子(にゃくいちおうじ)」が祀られていたといわれています。

 

「若一王子」とは神仏習合の神で、「若王子(にゃくおうじ)」ともいわれます。

 

いつ頃祀られたのかは明らかではありませんが、博多古図には福岡城築城以前のこの福崎の地に、「警固大明神」と「若一王子」の二つの神社が描かれていました。築城の際「若一王子」は、移築されることもなく、本丸に残されました。(「警固大明神」は築城にあたり、一時小烏神社に合祀され、1608年に御造営された神殿に祀られました。現在の「警固神社」です。)

 

紀伊半島南部にある熊野は修験道の一大中心地で、古くから霊場として崇拝されてきました。その熊野の三山に祀られる十二の神々のことを熊野十二所権現と呼び、「若一王子」はその中の一つです。本地仏は十一面観音で天照大神と同一視されています。

 

一方、竈門神社がある宝満山(竈門山)も古くから修験道として知られています。

そして、竈門山山伏の修法の場の一つが、この「若一王子の社」だったのです。

 

四代藩主黒田綱政42歳の厄を祓う意味もあり、天文23(1554)年に途絶えた竈門山の春の峰入りが、元禄12(1699)年3月に再興しました。

 

3月15日、竈門山山伏座主と山伏80人は竈門山を出発。糟屋・鞍手・宗像・那珂・御笠郡内、およそ27ヵ所で修法を行い、4月11日に福岡城内に入り、「若一王子の社」で修法を行ったとのこと。この時藩主から昆布を賜ったと「黒田家譜」に記載があります。

 

「鬼滅の刃」の竈門炭治郎の修法とは異なるでしょうが、福岡城ではどんな修法が行われたのか? また、修験者は炭治郎と同じ市松模様の装束だったのか?など、想像しながら城内を散策するのも楽しいのでは?

 

「近世福岡博多資料」によると、竈門山山伏一行は、辰の刻(午前8時頃)に上之橋を渡り、三の丸東部の広小路を進み、二の丸東御門、扇坂御門、本丸表御門を通って本丸に入ったそうです。その後、三の丸の御殿に向かい座主は大広間で応接を受け、お供の山伏達は白砂の庭上で「昆布」を賜り、御殿での儀礼を終えた一行は追廻御門から出て行ったそうです。

 

当館には、城内を散策されるときに地図があります。また、藤巴をデザインした福岡城の御城印も10月10日から販売を始めております。

 

 

 

聖地巡礼後、福岡城跡にも足を延ばしてみませんか?

スタッフ一同、お待ちしています。

 

「スマホ」で福岡城VRを楽しんでみました!

 

「鴻臚館・福岡城バーチャル時空散歩」は、タブレット端末のCG画像を見ながらガイドさんと共に城内を巡るツアーです。ベテランガイドさんの詳しい解説に加え、在りし日の福岡城もVRでリアルに感じることのできる好評のツアーなのですが、現在は新型コロナ感染拡大防止のため、残念ながら中止させていただいています。

 

そのため、今回は、気軽にご自分のスマートフォンで福岡城のVRを楽しめる体験型VR観光アプリ「ストリートミュージアム」をご紹介します。

このアプリで、「鴻臚館・福岡城バーチャル時空散歩」のVR画像が手軽にご覧いただけます。(詳しくは公式Webサイトwww.streetmuseum.jpをご確認ください)

 

無料アプリをGoogle PlayまたはApp Storeからダウンロードして、いざ福岡城跡へGo!

広大な福岡城ですが、地図で自分の位置を確認できるので迷子になる心配なし!VRスポットに近づくと、アプリが教えてくれるので、その場でスマホをかざします。

 

二の丸へ進む正式の門である「東御門」。

今はこんな感じですが、

 

 

スマホをかざすと、

 

 

何もなかった石垣の上に堂々とした建物が!

正面だけでなく、360度見回すとぐるりと当時の景色が出現します。

 

江戸時代の扇坂。日本で唯一!?の扇の形をした珍しい階段です。

 

 天守台では当時の城下町の景色が楽しめます。高い建物がなかった昔はかなり遠い場所まで一望できていたのですね。

 

VRスポットでは、その場所の詳しい解説文とともに音声ガイドも聞くことができます。

古地図も出るので、現在の地図と見比べてみるのも楽しいですよ。

 

ただし、ゆっくり城内を巡ると1時間ほどかかりますので、出発前にはスマホの電池残量をチェックしてくださいね。

 

VRの画像は現地でしか見ることができませんが、解説や動画はその場所に行かなくても見ることができます。おうちで事前に予習をしてから来られるのもいいですね。

 

このアプリでは福岡城だけでなく、その他の日本各地の城や世界遺産に登録されている史跡も掲載されています。ガイドブック代わりにおうち時間を楽しむ目的でもぜひ活用されてみてください。

 

福岡城跡の秋

 

11月3日(火)文化の日、福岡城跡の多聞櫓と三の丸広場では、様ざまな

催しが行われていました。

また、普段は非公開の、国指定文化財の「多聞櫓」内部が特別に一般公開

されていました。この櫓は江戸時代から城内に現存する唯一の櫓です。

総延長72m、内部は16の小部屋に分かれています。石落としや狭間(鉄砲を

撃つ小窓)が備えられていることから、いざというときの防御のための櫓と

考えられていましたが、平素は倉庫等に利用されていたと言われています。

(多聞櫓)

(多聞櫓内部)

 

多聞櫓の南側前面の広場では、「ブックオカのきなし古本市in福岡城」

と題し、古本屋さんが軒を連ねる青空古本市が行われました。

櫓を眺めながらお気に入りの古本を探すのは、なんだかとても心地

よかったです。

 

三の丸広場でも、公園を満喫できる様々な遊びが行われていました。

子供たちは、大喜びです!

(紙芝居)

(ジャンボシャボン玉)

 

この日はマルシェも開催されていました。

久しぶりのマルシェで、皆さんお買い物を楽しんでいました(^^)/

 

これから、紅葉の季節です。城内の木々も少しずつ色づいています。

新型コロナウィルス感染症対策をして、福岡城跡で秋の散策を楽しま

れませんか?

 

季節の花の特集ページ

 

ひも解き鴻臚館(その7)~鴻臚館と唐物 (からもの)~

ひも解き鴻臚館シリーズも今回が最終章になりました。

最後は唐物について少し触れてみたいと思います。

 

7世紀後半、中央政権化を進めた日本は海外との交易を非常に重要視し、人々の出入国やそれによってもたらされる文物の一元的、独占的な管理をする施設が必要になりました。

大宰府や鴻臚館(筑紫館)は来航者の迎賓や宿泊の役割も含め、そのような体制を円滑に行うために整備された機関・施設でもあります。

 

大陸との外交の最前線の地域であったこの場所に、まず筑紫館(つくしのむろつみ)が設けられます。

7~8世紀代は新羅からの使節が多く、唐からの使節は僅かだったようです。そして鴻臚館と名称が変わる9世紀前半には国家間の外交は衰退し、代わって海商の来航が増えていくことになります。

 

外国船に乗ってきた使節や商人、また無事に帰国した遣唐使や入唐僧によってもたらされた貴重な舶来品は、平安時代からは「唐物(からもの)」と呼ばれるようになりました。

唐物と言っても、唐(中国)や新羅(朝鮮)の物ばかりではありません。

 

その当時、唐の国は様々な制度や技術、文化面でも最先端を行く、アジアの中心的な国家であり、例えば西はシルクロードを通してガラス製品、また東アジアからは香木や薬材など国際色豊かな品々が集まって来ていました。

これら様々な国の品は、唐から直接に、また新羅などを介して日本に持ち込まれるようになったのです。

当時の高い技術によって生まれた希少な美術・工芸品も海を渡ってやって来ました。

その中には現在正倉院の宝物として保管されている物などもあります。

 

唐物は当時のブランド品のような物で、貴族階級や豪族はこれを所持することが、政治力や文化力が高いことを表すステータスシンボルであり、また王朝での処世に欠かせない重要なアイテムでした。

 

ですから海商によって鴻臚館に入ってきた貴重な唐物は、国が独占的に管理するため「官司先買」(来航者との交易は朝廷が先に行うものとする)が原則となっていました。

 

外国商船が鴻臚館に到着すると、まず大宰府に早馬を走らせて知らせます。それから大宰府~都へと伝達され、京の※蔵人所(くろうどどころ)から「唐物使い(からものつかい)」と呼ばれる役人が派遣されます。

※蔵人所:天皇の秘書的役割、事務を行った所

 

そしてその唐物使いが、朝廷が必要なものを先に買い上げ、残りの品は公定価格での民間の交易を許す形になっていました。

 

やがて時代の流れとともに唐物使いの役割は大宰府の役人が担うようになります。

また往来する海商の船に便乗し、舶来品を購入して日本に持ち帰る、交易目的の入唐使の派遣もあったようです。

 

鴻臚館跡の遺跡から発掘された欠片をもとに復元された陶器です。

異国の雰囲気が伝わってきますね。

こちらはペルシャ陶器の欠片です。独特の青緑の色が美しいです。

これらの陶器類は鴻臚館展示館に展示がございます。

 

源氏物語にも登場する薫物やガラス器や毛皮などの唐物は平安時代の華やかな王朝生活には欠かせない物でした。

シルクロードの終着駅と言われた日本。その日本独自の文化を形成していく上で、重要な役割を果たした唐物。

鴻臚館は約400年の間、その外交と交易の最前線にあって、様々な国の人や物、そして文化が行きかう国際色豊かな施設でした。

 

鴻臚館跡展示館ではこれまでシリーズで紹介してきた様々な内容を詳しくご覧いただくことが出来ます。

暑さも和らぎ、これから野外を散策には良い季節となります。

福岡城跡・鴻臚館跡展示館とそれぞれの時代に思いを馳せつつ、ゆっくりとした時間を過ごしてみませんか。

 

ひも解き 鴻臚館 (その6) ~古代のトイレ~

 

長かった猛暑ですが、ようやく爽やかな季節になりました。

こちらは当館の目の前に広がる鴻臚館広場の様子です。

散歩をされる人もいれば、ランニングをされる人たちも。市民の憩いの場となっています。

 

 

ところで、この写真に写っている地面の上の赤いマーク、何だかご存知ですか?

 

実はこの鴻臚館広場には、8世紀前半の頃、それぞれ東西約70m、南北約60mの外周の塀を持つ2棟の鴻臚館、北館と南館がありました。

 

この細長い赤のラインは、鴻臚館の北館の塀の跡。そしてその左側の長方形のマークの下に眠っているのが本日のお題、「古代のトイレ」です。

 

わが国で初めて遺跡において古代のトイレが発見されたのが、鴻臚館の南館側で、1990年春のことでした。こちらがその時の様子です。(上の写真は北館側のトイレの跡で、2000年度からの調査で確認されました。)

 

 

1.5mほど掘り下げたところで突然土の色が変わり、水平に堆積している黒色粘土質土層にぶつかり、その土の中から腐蝕した多量の木片が見つかったそうです。

当時の発掘責任者の山崎純男さんは、『「井戸かな?」という考えがわいた。』と「福岡城物語 はかた学7」に書かれています。

また1990年度の鴻臚館の調査資料にも、「この土坑(穴のこと)の使用目的は現在検討中。他のゴミ穴の土坑と区別して井戸状土坑とよんでいる」とも書いてあり、この時点ではまだこの穴が何なのか謎でした。

 

その後、排土を1㎜のメッシュのふるいにかけ水洗選別を行ったところ、多量のヘラ状の木製品、魚骨のほか 植物の種子に混じってウジ虫のサナギの殻も多量に検出されました。

また水平に堆積するには、堆積前の状態がどろどろした液状であったことがうかがえ、考古学的資料からトイレの遺構と説明可能。粘土層の黒さも糞尿と考えれば納得がいく、と謎解きが進んでいきます。

さらに、脂肪酸分析を帯広畜産大学の中野益男教授(当時)にお願いされ、その結果、堆積物の脂肪酸からみて 間違いなく人間の糞尿とわかり、トイレであることが確認されました。

 

余談ですが、「圧縮水で木片を露出していた時、はね返り水が口に入り、塩っぱかったことが思いだされる。」とも山崎さんは書かれていました。

 

さて、南館側で3つ、北館側で2つ見つかったトイレは、いずれも深さ4mほどの穴を掘り、その上に板を渡し使用していたようです。(イメージ的には下の写真のようにでしょうか?!)

 

 

また、瓦も出土したことから、瓦拭きの建物で覆われていたと思われます。

 

 

排土の中から多量に見つかった木片は、トイレットペーパーの代わりに使用された「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれるもので このような形をしています。

 

 

この「籌木」とは、「木簡」と呼ばれる木の札を細く、へら状にしたものです。

「木簡」とは、紙がなかった時代に文字を記したもので、主に荷札として使われており、国内の各地から鴻臚館に食料等が送られてくるときにも使用されていました。

総数約70の「木簡」が発掘されましたが、文字が残っていたのは十数点。年号が書かれたものはありませんでしたが、その書き方がトイレとして使われた時期の謎解きのヒントとなりました。

また、「木簡」と一緒に出てきた土器は8世紀中頃のものだったことから、奈良時代前期、鴻臚館の前身である筑紫館(つくしのむろつみ)時代のトイレとの特定に至りました。

 

トイレの遺構の発掘により分かってきたことはほかにもあります。

 

寄生虫卵分析により、豚ないしイノシシを常食していたことや、当時この周辺には自生していなかったチョウセンゴヨウマツやナツメの実がでてきたことから、外国人専用のトイレと日本人専用のトイレが別だったことも想定されています。

 

このように「トイレ」は、当時の様ざまな生活様式等を現在の私たちに教えてくれる貴重な情報源なのです。

 

一方、発掘調査の結果採取された花粉の分析や種実同定により、イネ科、マメ科、ウリ科、ナス科、ソバ属など今の私たちにも馴染みのある植物も検出されました。この検出された植物関連資料と、平安時代後期の「類聚雑要抄」(るいじゅうぞうようしょう)所載の宴会料理を参考にした鴻臚館時代(平安時代)の料理がこちらになります。

 

 

花粉分析の結果からは夏に花期を迎える物が多かったため、盛夏から秋の食膳をイメージして奈良女子大学の前川佳代さんが料理を組み立てられました。

 

古代の迎賓館である鴻臚館で、このような料理のおもてなしをうけた海外からのお客様。

彼らは何を日本にもたらしてくれたのでしょうか?

詳しくは、次回の「鴻臚館と唐物(からもの)」で。お楽しみに!

 

ひも解き鴻臚館(その5) ~鴻臚館跡の発見はスゴかった!~

 

鴻臚館は、今回のシリーズの(その2)でもご説明したように平安京(京都)難波(大阪)そして筑紫(福岡)の3か所に外交のために築かれた古代の迎賓館でしたが、遺跡が確認され、国の史跡に指定されているのは、当地の鴻臚館跡だけです。

さて、この場所は誰がどのようにして発見したのでしょうか。

現在、鴻臚館跡展示館が建っているあたりに存在していたと最初に提言したのは、九州帝国大学(現九州大学)医学部教授で考古学者の中山平次郎博士でした。

中山博士は、歴史的な功績も多く「金印」の出土地点を最初に推定したり、「元寇防塁」の名付け親と言われたりなど、輝かしい実績がある方でした。

中山平次郎博士

 

鴻臚館があった場所は、江戸時代頃までは現在の福岡市博多区中呉服町付近の管内(かんない)町と考えられていました。

平安時代に平清盛が日本で初めての人工港であると言われる「袖の湊(そでのみなと)」を呉服町のあたりに造ったという説(否定的な説もある)や、「福岡城」築城前の古い時代から呉服町方面の博多の町の方が栄えていたことなどが要因だったのかもしれません。

 

【呉服町の歩道上にある古地図の案内板

(赤い丸印に「湊之袖」と書かれている)】

 

しかしながら、中山博士は万葉集に収められた遣新羅使が筑紫館(のちの鴻臚館)に滞在中に詠んだ歌から、ヒグラシが鳴く山松が生え、そこから志賀島や荒津の岬が眺望できる立地であることなどを根拠に、福岡城跡の一画ではないかと考えられたそうです。

【手掛かりになった万葉集の一部】

 

この考えにそって、中山博士は当時陸軍の歩兵第二十四連隊が置かれていた福岡城跡が、ドンタクの際に一般市民に開放されるのを利用して密かに発掘し、多くの古代の瓦や陶器を発見しました。

陸軍の敷地内での独自の発掘など、今では考えられないのですが大丈夫だったのでしょうか?誰にも見つからずに出来たのでしょうか?

いいえ、「営内でスコップを持った怪しい奴がいる」と捕まったことがあったようです。

けれども、中山博士の兄が陸軍軍医少将だったため、釈放されたようです。

そのような中山博士の大発見ですが、当地が鴻臚館跡と確認され世の中に広く知られるようになるはまだまだ先のこと。昭和62年の平和台野球場の外野スタンド改修工事に伴っての本格的発掘調査まで待たなければなりませんでした。

鴻臚館跡展示館は、そんな凄いエピソードを持つ鴻臚館跡の本物の遺跡を直接見ることが出来ます。

中山博士の偉業を思いながら見学すると感慨深く感じるかもしれません。

 

次回のテーマは、『古代のトイレ』です。

鴻臚館とトイレ?!どんな解き明かしがあるのでしょう。乞うご期待☆

 

ひも解き鴻臚館(その4) ~遣唐使と航海ルート~

 

 

鴻臚館は、9世紀前半までは、唐や新羅からの使節を接待するとともに宿泊
を司る現在の迎賓館にあたるものであり、「遣唐使」や「遣新羅使」が旅支度
を整える対外公館でした。
また、出航にあたって風待ちをする大変重要な場所でもありました。鴻臚館が
まだ筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていた頃です。
9世紀後半以降になると、鴻臚館の主役は唐の商人などに移り、中国との貿易の
舞台となりました。11世紀後半に貿易拠点が博多に移るまで、日本最大の国際交
流の拠点でした。

 

さて、今回の「ひも解き」は、日本古代の朝廷が唐に派遣した使節、「遣唐使」
についてです。

 

(鴻臚館跡展示館にある遣唐使船の模型)

 

 

「遣唐使」は630年に犬神御田鍬(いぬがみのみたすき)らを最初に、
894年に菅原道真の建議で廃止されるまで20回計画され、うち15回が派遣され
ました(ただし、回数については諸説あります)。

中国の先進的な技術や政治制度、文化、仏教等の経典の収集を入手することが
主な目的でした。遣唐使は、大使・副使をはじめ留学生・学問僧など
約400人~500人が4隻の船に分乗し、出発しました。
天台宗を開いた最澄と真言宗を開いた空海はともに、804年の遣唐使で入唐を
果たしました。唐の先進的な仏教の教義を取り入れることで、法力の効験が高
まり、国を守ることにつながると朝廷は考えたようです。

 

4船で出航し空海が乗ったのは第1船で、最澄は第2船に乗りましたが、第3船と
第4船は遭難したため、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみでした。
最澄と空海が乗り込んだ2船だけが無事に到着したのですね。
東シナ海横断は遭難記録(複数回)があるなど極めて危険なことから、出発日を
変えるなど一隻でも到着できるよう変更していったようですが、当時唐への航海
はとても大変だったと想像できます。
そして最澄と空海が唐への出発にあたり、ここ「鴻臚館」から旅立ったかもしれ
ないと思うと大変感慨深いものがあります。

 

遣唐使船には3つの航路がありました。7世紀中頃の航路だったとされる北路。
8世紀~9世紀中頃までの航路だったとされる南路。そして8世紀代に開発された
航路で主に復路(帰路)に利用した南島路です。(南島路についてはなかったと
する説や、天候で流された結果とする説もあります。)

 

 

(遣唐使船航路図)

 

それにしても、約1400年前に「遣唐使」という歴史的な外交使節があり、当地に
「鴻臚館」が存在していたというのは大変素晴らしいことですね。
当時の「遣唐使」に思いを馳せ鴻臚館跡を散策するのも楽しいかもしれません。
その際は是非「鴻臚館跡展示館」にもお立ち寄りください。
次回は、鴻臚館の場所を発見した人物についてです。大変興味深い人なので、
楽しみにしてください!

 

 

ひも解き鴻臚館(その3) ~大宰府政庁との繋がり~

7世紀後半に九州の政治的な統括・対外交渉の窓口・貿易の要として、

筑前国(現在の福岡県北西部)に地方行政機関の大宰府が置かれました。

この大宰府の政務を取り扱っていたのが『大宰府政庁』でした。

 

みなさんは大宰府政庁の「大宰府」と、太宰府市の「太宰府」の違いが

分かりますか?

一般には、古代律令時代の役所およびその遺跡に関する「大宰府」、

中世以降の地名や太宰府天満宮については「太宰府」と明記されるように

なりました。

 

大宰府政庁は「遠の朝廷(とおのみかど)」とよばれ、

(中央政権)からは離れていましたが、

権限の大きさからそう呼ばれ、アジアとの外交と防衛などの大きな役割を担っていました。

万葉集の柿本人麻呂の歌にも「遠の朝廷」と表現されています。

平城京(平城京は唐の長安を参考)を模して造られ、碁盤の目状の街が広がり、

長官から雑用係も含めて1,000人以上の人が働いていたとも言われています。

ちなみに元号「令和」で脚光を浴びた大伴旅人は、大宰府政庁へ長官として赴任し

その手腕を発揮していました。

 

この大宰府の出先機関の一つが鴻臚館でした。「蕃客所」に属していて諸外国との

外交施設として、また、この辺りの警固(外敵から国を守る)を行う

「警固所」にも属していたようで、ともに大宰府を補助するための施設でした。

 

 

ところで、かつて大宰府政庁と鴻臚館とを結ぶ道があったことを、皆さんはご存じですか?

この道は官道といわれており、国によって整備・管理・維持がなされ現在の高速道路の

ようなものでした。

 

官道は中央集権と地方間の情報伝達手段として整備されたもので、こちらの官道は

外国からの使節団の到着を、鴻臚館から早馬を走らせ一刻も早く大宰府に伝達する

などといった大きな役割を担っていました。

 

この官道には、大宰府の防衛のため造られた「水城」において、東門と西門が整備され、

それぞれの門から博多湾岸方面に二本が並行して伸びていました。

このうち、鴻臚館と大宰府とを結ぶ道は西門を通る官道で、

幅約10m、長さは1316㎞の道になっていました。

その当時、早馬(時速20)で約40分、

徒歩(時速4)で約3時間20分かかっていたそうです。

外国使節や唐、新羅への遣使・留学生はこのルートで大宰府へ向かっていました。

 

ちなみに東門を通るルートは、大宰府と博多湾岸とを結んでおり、

朝廷から派遣された高級官人(国家公務員など)が利用していたそうです。

歴代の大宰府長官らもここを通ったのでしょうか?

このように西門ルートと東門ルートとでそれぞれの役割がありました。

現在はそのうちの一部が市道として活用されています。

次回のテーマは『遣唐使』です。

遣唐使と鴻臚館はどのような繋がりがあったのでしょうか?

お楽しみに~!

 

ひも解き 鴻臚館(その2)~鴻臚館の名前の由来~

 

鴻臚館が初めて文献上(日本書紀)に現れたのは、西暦688年でした。ただ、このときはまだ筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていました(「鴻臚館」の名称が初めて出てくるのは平安時代の838年)。

 

「鴻臚館」という字は難しい漢字ですが、当時の中国に、外国から来た使節に宿舎と食事を提供し、儀礼などを取り仕切る「鴻臚寺」という役所がありました。

 

「鴻」は白鳥など大型の水鳥を表し、「大きい」という意味、「臚」には「伝える・伝達する」という意味があります。2つの漢字を合わせて「使節の到来を大きな声で伝える」というような意味だそうですが、「鴻臚館」はこの中国の「鴻臚寺」の名称を引用したと言われています。

 

ちなみに、「鴻臚館」は福岡の他、難波(大阪)と平安京(京都)の3カ所に設けられたと言われていますが、その遺構が確認され国の史跡に指定されているのは当地だけです。

 

そこでは、前面の博多湾に突き出た丘陵地に、東西約70m、南北約60mの外周塀をもつ建物が2棟建てられ(第Ⅱ期~)、その中で外国からの使節をもてなしたり、また宿坊として提供したり、さらには中国大陸に渡る遣唐使などが旅装を整えたりしたとも伝えられています。

 

使節の往来が途絶えた後、当地の鴻臚館は交易の拠点となり、1047年に放火されたとの記録を最後に歴史の表舞台から姿を消します。

 

 

現在では、世界各国からの重要なお客様をお迎えする場所は、迎賓館赤坂離宮(東京)や京都迎賓館が中心で、福岡には迎賓館はありませんが、古来より大陸と近いこともあって海外との窓口の役割を担う重要な場所であり続けています。

 

一昨年、福岡で行われた国際会議後のレセプションでは、多くの方々が鴻臚館跡展示館に集われ、約1000年ぶりに迎賓館としての役割を担いました。

 

 

次回は、「大宰府政庁」との繋がりです。いったいどんな!?

 

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