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親子で探検!~福岡城のやぐらを探せ!!~ を開催しました

 

11月14日(土)、澄みきった秋空が広がる中、小学生とその保護者の方がたで福岡城内を散策していただく機会を設けました。

城内はすっかり秋の色に染まっています。

 

かつて福岡城内には47の櫓が建っていたと言われていますが、現在ご覧いただけ
るのはわずかに4カ所となっています。

 

その内の1つ、(伝)潮見櫓と今回内部を見学の下之橋御門櫓

 

この日は今はもう見ることが出来なくなってしまった櫓の跡を辿って、また現存
する櫓も見学してもらいながらの城内散策に16組の方々がご参加となりました。

一組ずつ時間をずらして出発です!

お渡しした地図を見ながら、城内の探検へ

 

出発前に念入りに内容を確認

解説や出題クイズを載せた「しおり」は、今年は巻物タイプです。

 

城内では順路に沿って、かつてあったはずの櫓の姿をCG映像(再現)で確認。

 

また指定のポイントで櫓についてのクイズなどに答えてもらいながら、約2時間
ほど城内を散策です。

 

 

福岡城では唯一、当時のまま現存する多聞櫓や下之橋御門の上にある櫓の内部も
見学していただきました。
今とは違うお城の建物の造りに、皆さま興味津々。

 

途中、順路を見失ったり、クイズの答えがなかなか見つからなかったりと色々
ありましたが、皆さま無事にゴールの探訪館へ。

 

今回はいつもとは違った目線で福岡城を楽しんでいただけたかと思います。
じっと目をこらすと、きっと何かしら新しい発見が!?

 

またいつでも気軽に福岡城へ遊びに来てくださいね。

 

福岡城跡の秋

 

11月3日(火)文化の日、福岡城跡の多聞櫓と三の丸広場では、様ざまな

催しが行われていました。

また、普段は非公開の、国指定文化財の「多聞櫓」内部が特別に一般公開

されていました。この櫓は江戸時代から城内に現存する唯一の櫓です。

総延長72m、内部は16の小部屋に分かれています。石落としや狭間(鉄砲を

撃つ小窓)が備えられていることから、いざというときの防御のための櫓と

考えられていましたが、平素は倉庫等に利用されていたと言われています。

(多聞櫓)

(多聞櫓内部)

 

多聞櫓の南側前面の広場では、「ブックオカのきなし古本市in福岡城」

と題し、古本屋さんが軒を連ねる青空古本市が行われました。

櫓を眺めながらお気に入りの古本を探すのは、なんだかとても心地

よかったです。

 

三の丸広場でも、公園を満喫できる様々な遊びが行われていました。

子供たちは、大喜びです!

(紙芝居)

(ジャンボシャボン玉)

 

この日はマルシェも開催されていました。

久しぶりのマルシェで、皆さんお買い物を楽しんでいました(^^)/

 

これから、紅葉の季節です。城内の木々も少しずつ色づいています。

新型コロナウィルス感染症対策をして、福岡城跡で秋の散策を楽しま

れませんか?

 

少しずつ福岡城跡も活動し始めました!

 

コロナ禍で、いろんなことが出来なかった日々がつづき、外に出ることも少なくなっていたのではないでしょうか。

福岡城跡へいらっしゃるお客様も、以前は近郊のご家族などが多かったのですが、最近は県外からのご夫婦やグループ旅行の方なども増えたように感じます。

 

来城される方が増えただけでなく、福岡城周辺も少しずつですが活動再開しました!

 

まず、現在福岡市博物館で開催されている「ふくおかの名宝-城と人と町―」が今月の10日から11月29日まで開催されています。

また、「ふくおか歴史お宝クエスト」が始まりました。

これは、福岡城むかし探訪館をスタートに様ざまな歴史的な場所をめぐりながら、「ミッションカード」と「プレミアムカード」を集めるもので、全て集めると“ほうびの品”が貰えますよ。

 

そして、多くの方からご要望をいただいていた“福岡市公式「御城印」“の販売も開始しました!

「福岡城むかし探訪館」と三の丸スクエア内の「舞遊の館」で販売しております。

全国的には朱色のデザインされた御城印が多いような気がしますが、福岡城は黒田家の家紋である藤巴の薄い紫のデザインで、落ち着いた色合となっております。

「舞遊の館」では福岡城の「限定御城印台紙」も!

 

さらに、この27日からは、「福岡城なぞ解きゲーム」も始まりました。

城内を散策しながら頭の体操をして、身体と脳を活性しましょう!

答えが分かった方は、ゴールの福岡市博物館で景品と引き換えです。

 

また、三の丸スクエア内の「舞遊の館」や「如水庵」では、お城らしいグッズや藤巴の御紋が入った小物なども販売しております。

お土産にいかがでしょうか?

 

 

秋の気配が深まってきた、福岡城跡です。

新型コロナの予防対策をしながら、楽しんでみませんか♪

 

ひも解き鴻臚館(その7)~鴻臚館と唐物 (からもの)~

ひも解き鴻臚館シリーズも今回が最終章になりました。

最後は唐物について少し触れてみたいと思います。

 

7世紀後半、中央政権化を進めた日本は海外との交易を非常に重要視し、人々の出入国やそれによってもたらされる文物の一元的、独占的な管理をする施設が必要になりました。

大宰府や鴻臚館(筑紫館)は来航者の迎賓や宿泊の役割も含め、そのような体制を円滑に行うために整備された機関・施設でもあります。

 

大陸との外交の最前線の地域であったこの場所に、まず筑紫館(つくしのむろつみ)が設けられます。

7~8世紀代は新羅からの使節が多く、唐からの使節は僅かだったようです。そして鴻臚館と名称が変わる9世紀前半には国家間の外交は衰退し、代わって海商の来航が増えていくことになります。

 

外国船に乗ってきた使節や商人、また無事に帰国した遣唐使や入唐僧によってもたらされた貴重な舶来品は、平安時代からは「唐物(からもの)」と呼ばれるようになりました。

唐物と言っても、唐(中国)や新羅(朝鮮)の物ばかりではありません。

 

その当時、唐の国は様々な制度や技術、文化面でも最先端を行く、アジアの中心的な国家であり、例えば西はシルクロードを通してガラス製品、また東アジアからは香木や薬材など国際色豊かな品々が集まって来ていました。

これら様々な国の品は、唐から直接に、また新羅などを介して日本に持ち込まれるようになったのです。

当時の高い技術によって生まれた希少な美術・工芸品も海を渡ってやって来ました。

その中には現在正倉院の宝物として保管されている物などもあります。

 

唐物は当時のブランド品のような物で、貴族階級や豪族はこれを所持することが、政治力や文化力が高いことを表すステータスシンボルであり、また王朝での処世に欠かせない重要なアイテムでした。

 

ですから海商によって鴻臚館に入ってきた貴重な唐物は、国が独占的に管理するため「官司先買」(来航者との交易は朝廷が先に行うものとする)が原則となっていました。

 

外国商船が鴻臚館に到着すると、まず大宰府に早馬を走らせて知らせます。それから大宰府~都へと伝達され、京の※蔵人所(くろうどどころ)から「唐物使い(からものつかい)」と呼ばれる役人が派遣されます。

※蔵人所:天皇の秘書的役割、事務を行った所

 

そしてその唐物使いが、朝廷が必要なものを先に買い上げ、残りの品は公定価格での民間の交易を許す形になっていました。

 

やがて時代の流れとともに唐物使いの役割は大宰府の役人が担うようになります。

また往来する海商の船に便乗し、舶来品を購入して日本に持ち帰る、交易目的の入唐使の派遣もあったようです。

 

鴻臚館跡の遺跡から発掘された欠片をもとに復元された陶器です。

異国の雰囲気が伝わってきますね。

こちらはペルシャ陶器の欠片です。独特の青緑の色が美しいです。

これらの陶器類は鴻臚館展示館に展示がございます。

 

源氏物語にも登場する薫物やガラス器や毛皮などの唐物は平安時代の華やかな王朝生活には欠かせない物でした。

シルクロードの終着駅と言われた日本。その日本独自の文化を形成していく上で、重要な役割を果たした唐物。

鴻臚館は約400年の間、その外交と交易の最前線にあって、様々な国の人や物、そして文化が行きかう国際色豊かな施設でした。

 

鴻臚館跡展示館ではこれまでシリーズで紹介してきた様々な内容を詳しくご覧いただくことが出来ます。

暑さも和らぎ、これから野外を散策には良い季節となります。

福岡城跡・鴻臚館跡展示館とそれぞれの時代に思いを馳せつつ、ゆっくりとした時間を過ごしてみませんか。

 

ひも解き 鴻臚館 (その6) ~古代のトイレ~

 

長かった猛暑ですが、ようやく爽やかな季節になりました。

こちらは当館の目の前に広がる鴻臚館広場の様子です。

散歩をされる人もいれば、ランニングをされる人たちも。市民の憩いの場となっています。

 

 

ところで、この写真に写っている地面の上の赤いマーク、何だかご存知ですか?

 

実はこの鴻臚館広場には、8世紀前半の頃、それぞれ東西約70m、南北約60mの外周の塀を持つ2棟の鴻臚館、北館と南館がありました。

 

この細長い赤のラインは、鴻臚館の北館の塀の跡。そしてその左側の長方形のマークの下に眠っているのが本日のお題、「古代のトイレ」です。

 

わが国で初めて遺跡において古代のトイレが発見されたのが、鴻臚館の南館側で、1990年春のことでした。こちらがその時の様子です。(上の写真は北館側のトイレの跡で、2000年度からの調査で確認されました。)

 

 

1.5mほど掘り下げたところで突然土の色が変わり、水平に堆積している黒色粘土質土層にぶつかり、その土の中から腐蝕した多量の木片が見つかったそうです。

当時の発掘責任者の山崎純男さんは、『「井戸かな?」という考えがわいた。』と「福岡城物語 はかた学7」に書かれています。

また1990年度の鴻臚館の調査資料にも、「この土坑(穴のこと)の使用目的は現在検討中。他のゴミ穴の土坑と区別して井戸状土坑とよんでいる」とも書いてあり、この時点ではまだこの穴が何なのか謎でした。

 

その後、排土を1㎜のメッシュのふるいにかけ水洗選別を行ったところ、多量のヘラ状の木製品、魚骨のほか 植物の種子に混じってウジ虫のサナギの殻も多量に検出されました。

また水平に堆積するには、堆積前の状態がどろどろした液状であったことがうかがえ、考古学的資料からトイレの遺構と説明可能。粘土層の黒さも糞尿と考えれば納得がいく、と謎解きが進んでいきます。

さらに、脂肪酸分析を帯広畜産大学の中野益男教授(当時)にお願いされ、その結果、堆積物の脂肪酸からみて 間違いなく人間の糞尿とわかり、トイレであることが確認されました。

 

余談ですが、「圧縮水で木片を露出していた時、はね返り水が口に入り、塩っぱかったことが思いだされる。」とも山崎さんは書かれていました。

 

さて、南館側で3つ、北館側で2つ見つかったトイレは、いずれも深さ4mほどの穴を掘り、その上に板を渡し使用していたようです。(イメージ的には下の写真のようにでしょうか?!)

 

 

また、瓦も出土したことから、瓦拭きの建物で覆われていたと思われます。

 

 

排土の中から多量に見つかった木片は、トイレットペーパーの代わりに使用された「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれるもので このような形をしています。

 

 

この「籌木」とは、「木簡」と呼ばれる木の札を細く、へら状にしたものです。

「木簡」とは、紙がなかった時代に文字を記したもので、主に荷札として使われており、国内の各地から鴻臚館に食料等が送られてくるときにも使用されていました。

総数約70の「木簡」が発掘されましたが、文字が残っていたのは十数点。年号が書かれたものはありませんでしたが、その書き方がトイレとして使われた時期の謎解きのヒントとなりました。

また、「木簡」と一緒に出てきた土器は8世紀中頃のものだったことから、奈良時代前期、鴻臚館の前身である筑紫館(つくしのむろつみ)時代のトイレとの特定に至りました。

 

トイレの遺構の発掘により分かってきたことはほかにもあります。

 

寄生虫卵分析により、豚ないしイノシシを常食していたことや、当時この周辺には自生していなかったチョウセンゴヨウマツやナツメの実がでてきたことから、外国人専用のトイレと日本人専用のトイレが別だったことも想定されています。

 

このように「トイレ」は、当時の様ざまな生活様式等を現在の私たちに教えてくれる貴重な情報源なのです。

 

一方、発掘調査の結果採取された花粉の分析や種実同定により、イネ科、マメ科、ウリ科、ナス科、ソバ属など今の私たちにも馴染みのある植物も検出されました。この検出された植物関連資料と、平安時代後期の「類聚雑要抄」(るいじゅうぞうようしょう)所載の宴会料理を参考にした鴻臚館時代(平安時代)の料理がこちらになります。

 

 

花粉分析の結果からは夏に花期を迎える物が多かったため、盛夏から秋の食膳をイメージして奈良女子大学の前川佳代さんが料理を組み立てられました。

 

古代の迎賓館である鴻臚館で、このような料理のおもてなしをうけた海外からのお客様。

彼らは何を日本にもたらしてくれたのでしょうか?

詳しくは、次回の「鴻臚館と唐物(からもの)」で。お楽しみに!

 

ひも解き鴻臚館(その5) ~鴻臚館跡の発見はスゴかった!~

 

鴻臚館は、今回のシリーズの(その2)でもご説明したように平安京(京都)難波(大阪)そして筑紫(福岡)の3か所に外交のために築かれた古代の迎賓館でしたが、遺跡が確認され、国の史跡に指定されているのは、当地の鴻臚館跡だけです。

さて、この場所は誰がどのようにして発見したのでしょうか。

現在、鴻臚館跡展示館が建っているあたりに存在していたと最初に提言したのは、九州帝国大学(現九州大学)医学部教授で考古学者の中山平次郎博士でした。

中山博士は、歴史的な功績も多く「金印」の出土地点を最初に推定したり、「元寇防塁」の名付け親と言われたりなど、輝かしい実績がある方でした。

中山平次郎博士

 

鴻臚館があった場所は、江戸時代頃までは現在の福岡市博多区中呉服町付近の管内(かんない)町と考えられていました。

平安時代に平清盛が日本で初めての人工港であると言われる「袖の湊(そでのみなと)」を呉服町のあたりに造ったという説(否定的な説もある)や、「福岡城」築城前の古い時代から呉服町方面の博多の町の方が栄えていたことなどが要因だったのかもしれません。

 

【呉服町の歩道上にある古地図の案内板

(赤い丸印に「湊之袖」と書かれている)】

 

しかしながら、中山博士は万葉集に収められた遣新羅使が筑紫館(のちの鴻臚館)に滞在中に詠んだ歌から、ヒグラシが鳴く山松が生え、そこから志賀島や荒津の岬が眺望できる立地であることなどを根拠に、福岡城跡の一画ではないかと考えられたそうです。

【手掛かりになった万葉集の一部】

 

この考えにそって、中山博士は当時陸軍の歩兵第二十四連隊が置かれていた福岡城跡が、ドンタクの際に一般市民に開放されるのを利用して密かに発掘し、多くの古代の瓦や陶器を発見しました。

陸軍の敷地内での独自の発掘など、今では考えられないのですが大丈夫だったのでしょうか?誰にも見つからずに出来たのでしょうか?

いいえ、「営内でスコップを持った怪しい奴がいる」と捕まったことがあったようです。

けれども、中山博士の兄が陸軍軍医少将だったため、釈放されたようです。

そのような中山博士の大発見ですが、当地が鴻臚館跡と確認され世の中に広く知られるようになるはまだまだ先のこと。昭和62年の平和台野球場の外野スタンド改修工事に伴っての本格的発掘調査まで待たなければなりませんでした。

鴻臚館跡展示館は、そんな凄いエピソードを持つ鴻臚館跡の本物の遺跡を直接見ることが出来ます。

中山博士の偉業を思いながら見学すると感慨深く感じるかもしれません。

 

次回のテーマは、『古代のトイレ』です。

鴻臚館とトイレ?!どんな解き明かしがあるのでしょう。乞うご期待☆

 

ひも解き鴻臚館(その4) ~遣唐使と航海ルート~

 

 

鴻臚館は、9世紀前半までは、唐や新羅からの使節を接待するとともに宿泊
を司る現在の迎賓館にあたるものであり、「遣唐使」や「遣新羅使」が旅支度
を整える対外公館でした。
また、出航にあたって風待ちをする大変重要な場所でもありました。鴻臚館が
まだ筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていた頃です。
9世紀後半以降になると、鴻臚館の主役は唐の商人などに移り、中国との貿易の
舞台となりました。11世紀後半に貿易拠点が博多に移るまで、日本最大の国際交
流の拠点でした。

 

さて、今回の「ひも解き」は、日本古代の朝廷が唐に派遣した使節、「遣唐使」
についてです。

 

(鴻臚館跡展示館にある遣唐使船の模型)

 

 

「遣唐使」は630年に犬神御田鍬(いぬがみのみたすき)らを最初に、
894年に菅原道真の建議で廃止されるまで20回計画され、うち15回が派遣され
ました(ただし、回数については諸説あります)。

中国の先進的な技術や政治制度、文化、仏教等の経典の収集を入手することが
主な目的でした。遣唐使は、大使・副使をはじめ留学生・学問僧など
約400人~500人が4隻の船に分乗し、出発しました。
天台宗を開いた最澄と真言宗を開いた空海はともに、804年の遣唐使で入唐を
果たしました。唐の先進的な仏教の教義を取り入れることで、法力の効験が高
まり、国を守ることにつながると朝廷は考えたようです。

 

4船で出航し空海が乗ったのは第1船で、最澄は第2船に乗りましたが、第3船と
第4船は遭難したため、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみでした。
最澄と空海が乗り込んだ2船だけが無事に到着したのですね。
東シナ海横断は遭難記録(複数回)があるなど極めて危険なことから、出発日を
変えるなど一隻でも到着できるよう変更していったようですが、当時唐への航海
はとても大変だったと想像できます。
そして最澄と空海が唐への出発にあたり、ここ「鴻臚館」から旅立ったかもしれ
ないと思うと大変感慨深いものがあります。

 

遣唐使船には3つの航路がありました。7世紀中頃の航路だったとされる北路。
8世紀~9世紀中頃までの航路だったとされる南路。そして8世紀代に開発された
航路で主に復路(帰路)に利用した南島路です。(南島路についてはなかったと
する説や、天候で流された結果とする説もあります。)

 

 

(遣唐使船航路図)

 

それにしても、約1400年前に「遣唐使」という歴史的な外交使節があり、当地に
「鴻臚館」が存在していたというのは大変素晴らしいことですね。
当時の「遣唐使」に思いを馳せ鴻臚館跡を散策するのも楽しいかもしれません。
その際は是非「鴻臚館跡展示館」にもお立ち寄りください。
次回は、鴻臚館の場所を発見した人物についてです。大変興味深い人なので、
楽しみにしてください!

 

 

ひも解き鴻臚館(その3) ~大宰府政庁との繋がり~

7世紀後半に九州の政治的な統括・対外交渉の窓口・貿易の要として、

筑前国(現在の福岡県北西部)に地方行政機関の大宰府が置かれました。

この大宰府の政務を取り扱っていたのが『大宰府政庁』でした。

 

みなさんは大宰府政庁の「大宰府」と、太宰府市の「太宰府」の違いが

分かりますか?

一般には、古代律令時代の役所およびその遺跡に関する「大宰府」、

中世以降の地名や太宰府天満宮については「太宰府」と明記されるように

なりました。

 

大宰府政庁は「遠の朝廷(とおのみかど)」とよばれ、

(中央政権)からは離れていましたが、

権限の大きさからそう呼ばれ、アジアとの外交と防衛などの大きな役割を担っていました。

万葉集の柿本人麻呂の歌にも「遠の朝廷」と表現されています。

平城京(平城京は唐の長安を参考)を模して造られ、碁盤の目状の街が広がり、

長官から雑用係も含めて1,000人以上の人が働いていたとも言われています。

ちなみに元号「令和」で脚光を浴びた大伴旅人は、大宰府政庁へ長官として赴任し

その手腕を発揮していました。

 

この大宰府の出先機関の一つが鴻臚館でした。「蕃客所」に属していて諸外国との

外交施設として、また、この辺りの警固(外敵から国を守る)を行う

「警固所」にも属していたようで、ともに大宰府を補助するための施設でした。

 

 

ところで、かつて大宰府政庁と鴻臚館とを結ぶ道があったことを、皆さんはご存じですか?

この道は官道といわれており、国によって整備・管理・維持がなされ現在の高速道路の

ようなものでした。

 

官道は中央集権と地方間の情報伝達手段として整備されたもので、こちらの官道は

外国からの使節団の到着を、鴻臚館から早馬を走らせ一刻も早く大宰府に伝達する

などといった大きな役割を担っていました。

 

この官道には、大宰府の防衛のため造られた「水城」において、東門と西門が整備され、

それぞれの門から博多湾岸方面に二本が並行して伸びていました。

このうち、鴻臚館と大宰府とを結ぶ道は西門を通る官道で、

幅約10m、長さは1316㎞の道になっていました。

その当時、早馬(時速20)で約40分、

徒歩(時速4)で約3時間20分かかっていたそうです。

外国使節や唐、新羅への遣使・留学生はこのルートで大宰府へ向かっていました。

 

ちなみに東門を通るルートは、大宰府と博多湾岸とを結んでおり、

朝廷から派遣された高級官人(国家公務員など)が利用していたそうです。

歴代の大宰府長官らもここを通ったのでしょうか?

このように西門ルートと東門ルートとでそれぞれの役割がありました。

現在はそのうちの一部が市道として活用されています。

次回のテーマは『遣唐使』です。

遣唐使と鴻臚館はどのような繋がりがあったのでしょうか?

お楽しみに~!

 

ひも解き 鴻臚館(その2)~鴻臚館の名前の由来~

 

鴻臚館が初めて文献上(日本書紀)に現れたのは、西暦688年でした。ただ、このときはまだ筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていました(「鴻臚館」の名称が初めて出てくるのは平安時代の838年)。

 

「鴻臚館」という字は難しい漢字ですが、当時の中国に、外国から来た使節に宿舎と食事を提供し、儀礼などを取り仕切る「鴻臚寺」という役所がありました。

 

「鴻」は白鳥など大型の水鳥を表し、「大きい」という意味、「臚」には「伝える・伝達する」という意味があります。2つの漢字を合わせて「使節の到来を大きな声で伝える」というような意味だそうですが、「鴻臚館」はこの中国の「鴻臚寺」の名称を引用したと言われています。

 

ちなみに、「鴻臚館」は福岡の他、難波(大阪)と平安京(京都)の3カ所に設けられたと言われていますが、その遺構が確認され国の史跡に指定されているのは当地だけです。

 

そこでは、前面の博多湾に突き出た丘陵地に、東西約70m、南北約60mの外周塀をもつ建物が2棟建てられ(第Ⅱ期~)、その中で外国からの使節をもてなしたり、また宿坊として提供したり、さらには中国大陸に渡る遣唐使などが旅装を整えたりしたとも伝えられています。

 

使節の往来が途絶えた後、当地の鴻臚館は交易の拠点となり、1047年に放火されたとの記録を最後に歴史の表舞台から姿を消します。

 

 

現在では、世界各国からの重要なお客様をお迎えする場所は、迎賓館赤坂離宮(東京)や京都迎賓館が中心で、福岡には迎賓館はありませんが、古来より大陸と近いこともあって海外との窓口の役割を担う重要な場所であり続けています。

 

一昨年、福岡で行われた国際会議後のレセプションでは、多くの方々が鴻臚館跡展示館に集われ、約1000年ぶりに迎賓館としての役割を担いました。

 

 

次回は、「大宰府政庁」との繋がりです。いったいどんな!?

 

ひも解き 鴻臚館(その1) ~プロローグ~

 

福岡市の中心部に近く、多くの緑に囲まれた舞鶴公園。ここは江戸時代に福岡城があったところです。

その一角、平和台球場跡地の芝生広場の南側に、お城とは結び付かない大きな古風な建物が見えます。これは広く市民の方などに当地の歴史・由来などを知っていただくため、平成7年から無料で公開している「鴻臚館跡展示館」です。

 

「鴻臚館」。とても難しい漢字ですが“こうろかん”と読みます。

名前も もちろんですが、一体いつ頃、どういった役割を果たしていたものなのか知っている人はそう多くないようです。

飛鳥から平安時代の頃は、現在のお堀の近くに海岸線があったと考えられ、この地を拠点に中国大陸・朝鮮半島との外交・交易が行われていました。そして、ここから国内に新しい文化や宗教、品々が広まっていきました。

 

このような鴻臚館の歴史、役割、そして発見のきっかけなどを、これから6回にわたってご紹介します。

早速、次回は名前の由来や、役割などについてです。お楽しみに!

 

  鴻臚館跡展示館 全景

 

  館内の状況

 

「ハートをさがせ!」 福岡城編

 

「ウォーリーをさがせ!」ではなく「ハートをさがせ!」、ということで福岡城跡でハートを探してみました。

上之橋からスタートし下之橋のゴールまで果たしていくつ見つけることができるでしょうか?

 

まず、上之橋を渡っていると、正面の左側、お堀の上に高くそびえる石垣の中にさっそく発見!

 

 

これは幸先がいい!と、そのまま鴻臚館広場を進み東御門跡まで行くと、

テニスコートの横の石垣のなかにも!

 

 

東御門跡から鴻臚館跡展示館に向かって歩いていたら、ちょっとお茶目なこんな

ハート石を、さらに進むと、白いハートの模様のある石をみつけました。

 

 

 

引き返して、東御門跡の石段を上がっていくと目の前に現れるのがこちらのハート!

 

 

扇坂を上がり、梅園を通り抜け、表御門跡の階段を上がっていると右側の石垣にもありました!

 

 

裏御門跡から桐木坂御門跡に向かっていると こんな石もありました。

斜めから見たら見えなくもない?!

 

 

さらにしょうぶ園へと進む途中の石垣の中には、ハートの形の刻印があります。

 

 

つつじ園奥の石垣に沿って下之橋御門跡へと歩きながら、ふと空を見上げると

木の葉さえハートにみえてきました。

 

 

なんと、ゴールの下之橋御門跡の柱の近くにもありました。

 

 

そして御門の扉の金具の中にまで!

 

 

下之橋を渡るとそこは城外になりますが、こんな番外編も見つけました。

明治通りの歩道にあるマンホールです。

 

 

目を凝らしてよくみると

 

 

こんな所にもハートがありました。これは福岡に「来い」と「恋」を掛けた

「FUKU 51 MANHOLE (フク コイ マンホール)」限定51枚のうちの一つです。

上之橋近くにもありますよ。

 

いつもとは違う目線で城内を散策されませんか?

 

城内の他の場所でもハートを見つけられたら、是非スタッフに教えて下さい!

お待ちしています。

 

福岡城 初夏の最新情報

 

日中は汗ばむ気温の日も多くなり、半袖姿の方も目立ち始めました。城内は、緑色が濃くなり夏の花々が顔を見せ始めています。梅雨入り前に、初夏の城内散策を楽しみませんか。

 

初夏を代表する花といえば、紫陽花。下之橋御門、牡丹芍薬園、6号堀などで咲き始めています。

 

多聞櫓の真下に位置する菖蒲園。昨年整備され、遊歩道が歩きやすくなりました。紫と白のコントラストが美しい菖蒲は今が見頃です。

 

 

下之橋御門の北側では、黄色い睡蓮、それらの水面に浮かぶ葉の間を歩くアオサギ。また、6号堀ではピンクの睡蓮も楽しむことができます。

  

 

 

現在、城内では「祈念櫓」や「潮見櫓」など、各所の修復・復元作業も着々と進んでいます。

「祈念櫓」の石垣修復工事は、全体の三分の一ほどが解体されているようです。進捗状況が現場のボードで確認できますよ。

 

 

また、福岡市の文化財部のFacebookでは、石垣保存修復工事の動画を見ることができますので、

ぜひチェックしてみてください。

https://www.facebook.com/福岡市の文化財-529576117094595/

 

三の丸広場北西の「潮見櫓」復元予定地でも、5月から石垣の修復工事が始まっています。地下鉄大濠公園駅近くの明治通り沿いから、工事の様子を見ることができます。

 

福岡城むかし探訪館、鴻臚館跡展示館へもぜひ足をお運びください。

スタッフ一同、お待ちしております。

 

はや解き 福岡城 (その7)  ~お城の建物は戦争で焼けたの?~

福岡城のはや解きも、本日で最終回となりました。

今回はお城の建物がなぜ残っていないのか?焼けたのか?

について、ご紹介いたします。

 

福岡城の城内には藩主の住まいや、藩を治める役所の建物、家老屋敷、

そして、47の櫓や10の門などがありました。

「福岡城むかし探訪館」が建っているあたりも、江戸時代は家老屋敷が

並んでいたと考えられています。

 

明治時代になると、当時の政府の役職であった太政官から廃城令という

命令が出されました。(明治6年)

これに基づき、福岡城は陸軍が使用する軍用地となり、併せて従来からの

建物等で陸軍による使用がされないものについては、解体や移築されることに

なったのです。多くの櫓や門なども解体され、黒田家のゆかりのお寺に

移築されるなどして、ほとんど城内からなくなりました。

 

お城によっては、軍用地として城跡が利用されるため、石垣を壊されるところも

ありましたが、幸い福岡城の石垣は壊されずに、今でも当時の姿で残っています。

ちなみに、福岡県庁も明治4年から福岡城内に置かれていました。

 

一方、江戸時代、弓矢や槍などの様々な武器を収めていた武具櫓は、

大正時代に現在の中央区浜の町にあった黒田家の別邸に建物の大きさを変え

移設されました。しかしながら、昭和20年の空襲で焼けてしまいました。

●福岡城に在りし日の武具櫓

 

また、黒田家ゆかりのお寺といえば博多区千代にある、崇福寺が有名ですね。

黒田官兵衛・長政などのお墓があるお寺です。

ここに移築された福岡城の表御門は、幸い空襲を免れ、現存しています。

下の写真は明治時代()と現在()の表御門の姿です。

●明治初期の福岡城 表御門        ●現在の崇福寺 山門

 

その後、一部の櫓が城内に再移築されてきたり、

また、下の写真の櫓や門などが、福岡市により復元整備を目指されているところです。

やがて昔の面影がより感じられることになりそうです。楽しみですね!

●潮見櫓(再建に向け福岡市で保存中)   ●上之橋御門(明治時代の様子)

 

 

福岡城では新緑のグラデーションがきれいな初夏を迎えております。

これからの時期は菖蒲や紫陽花が見ごろを迎えます。

お散歩がてら、福岡城に、そして福岡城むかし探訪館にもお出かけください。

 

 

 

 

 

 

 

はや解き 福岡城(その6)~天守閣ってあったの?~

お城のシンボルと言えば、天守閣!その存在が謎に包まれているのが福岡城の天守閣です。

 

福岡城が描かれた地図として最も古いのが福博惣絵図です。

1646年に描かれたものですが、この地図には天守閣がなく、また福岡藩には天守閣に関する資料がないことから、長政は江戸幕府に忠誠を尽くすことを示すために天守閣を造らなかったと言われてきました。

ところが近年、天守閣の存在をうかがわせる文献がでてきました。

 

江戸時代の初期、お隣の豊前小倉藩にいた細川忠興という大名が、1620年三男忠利に宛てた書状に

「黒田長政が幕府に配慮し天守閣を取り壊すと語ったらしい」という記載があるのが発見されたのです。

また同年同じく細川忠興が家臣の松井興長に宛てた書状には

「天守閣を壊して石垣の石も大阪城の工事に持っていく」とも書かれていました。

 

さらに、築城開始の翌年、1602年に黒田長政が家臣の黒田一成に宛てた書状に、

「今月中に天守閣の柱立てを行うように命ずる」という記載がありました。

こちらは現在の福岡城の写真です。天守台に上がる最後の階段の右側にはいくつもの礎石があります。

 

 

ということは、この礎石の上には天守閣の柱が立っていたのでは!

こちらがCGを使って再現した柱の様子です。

 

 

そしてその柱の上にはこのような天守閣があったのでは?

 

 

こちらも同じくCGを使って再現したものです。

 

これらの存在を思わせる内容の書かれた古文書の発見により、実際には天守閣を造ったものの10数年で取りこわしたのでは?との議論を呼んでいます。

では、なぜ取りこわさなければいけなかったのか?そこには外様大名としての長政の立場や当時の時代背景が大きくかかわっているようです。

 

江戸時代では幕府の許可を得ずにお城の建物などを勝手に修理したりすると領地を取り上げられました。

1619年福島正則が無断で城を修理したため、広島藩49.8万石から高井野藩(信濃高井郡2万石 越後魚沼郡2.5万石の合わせて4.5万石)へと減封の上移封となりました。

軍事施設としての城の増改築はお家取りつぶしにもつながるため、黒田家をはじめとする外様大名は幕府に対して非常に気を使ったとのこと。

 

また戦国時代が終わりをむかえ、徳川幕府の世が安定期に入ると、幕府は全国の諸大名に命じ大阪城や名古屋城など天下普請が盛んに行われるようになり、藩の財政は苦しくなる一方でした。

1638年島原の乱の功績に対して「天守閣などを建設(再建)されたいときもあるだろうから、そのときは将軍様のご意向を得られるが良い・・・」と、幕府からの申し出が書かれた古文書も見つかりましたが、再建された事実はありません。

 

このように、天守閣の存在は謎ですが、城内には櫓や門など多くの建物がありました。

しかしながら、現在残っている建物はほとんどありません。どうしてなのか?

答えは次回の「お城の建物は戦争で焼けたの?」で!

 

 

 

 

 

はや解き 福岡城(その5)~大濠公園の水はしょっぱいって本当?~

ジョギングや散策、レンタルボートなどで多くの人たちが楽しむ全国屈指の水景

公園、大濠公園。広さは39万8千平方メートル(福岡PayPay ドーム約6個分)あ

り、そのうち半分以上の広さを池が占めています。

 

 

このシリーズの「その4」でもお話しましたが、福岡城は周囲をぐるりと堀で囲

まれていて、福岡城の西側に位置する大濠公園もまた、福岡城の堀の一部でした。

 

 

福岡城が築かれた頃は、大濠公園のある一帯は博多湾へとつながる入り江でした

が、築城する際にその北側部分を埋め立てて町を造るとともに、入り江となって

いた部分をそのまま堀として利用しました。

「大きな堀」だったので「大堀」です。この「大堀」の字が「大濠」へと変わった

のは明治時代以降です。

 

一方、築城の際、お城を囲む堀は、肥前堀などを掘削して福岡市の中心部・中州の

そばを流れる那珂川まで繋げました。これにより、那珂川から取り込まれた水は

城の周囲を巡って、大堀につながる黒門川から博多湾へと流れ出ました。

このように福岡城は川の水を巧みに利用して、堀の水を循環させていたのです。

 

また、これに伴い元もと大堀に流れ込んでいた樋井川(ひいがわ)は、二本の

河川からの流水により堀の水が溢れるのを防ぐため、進路は鳥飼付近で大きく西へと曲げられました。

 

明治時代に入り、那珂川とつながっていた肥前堀などは埋め立てられ、そこは市

役所や商業施設用地として利用され、大堀も昭和2年の「東亜勧業博覧会」の会場と

なった際に埋め立てられて、以前の半分の大きさとなりました。その後、公園とし

て整備され「大濠公園」が誕生しました。

 

さて、現在の大濠公園の水はしょっぱいのかどうか?

水の成分を実際に測定すると、ほぼ真水だそうですが、詳細な分析では、築城前ま

では博多湾の入り江だったことなどから、今でもほんの少し塩分も検出されるようです。

 

現在、大濠公園の池の水は浄化装置により浄化されていますが、飲むことはできません。どのくらいしょっぱいかな!?とこっそり舐めたりしたらダメですよ!

 

次回は、福岡城最大のミステリー「天守閣ってあったの?」です。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はや解き 福岡城(その4)~福岡市地下鉄は石垣を目覚めさせた?~

福岡城はとても攻めにくいお城だったと言とわれていますが、その理由の

一つに、常に周囲を水で囲まれるようにした「水堀」があったからです。

その堀の幅は、上之橋から下之橋では60mから70mあったとされ、

他藩の城と比べても広く、このように内郭を幅の広い一重の堀で取り囲む

例は、近世城郭ではあまり見られないものだと言われています。

 

しかしながら、明治43年に市内電車をこの辺りの前面の道路上を走らせる

ときに、その一部堀が埋め立てられ、2/3程の幅になりました。

軌道が敷設され、路面電車が走ることにより荒戸・黒門・地行一帯が

賑わいをみせるようになったようです。

 

その後、昭和51年に同道路下での地下鉄工事の際に、埋められていたお堀の

石垣が発見されました。長政公が築造して約400年後に再びこの石垣が脚光を

浴びることになったのです。凄いですね!! 一時は地下鉄の路線変更の話も

出たようですが、現実的には変更の余地はありませんでした。その一方で

発見された石垣を「部分保存」することになりました。

 

この福岡城跡堀石垣は、明治通りの赤坂交差点から西へ2分ほど歩いた

ところで見ることができます。毎週土曜と日曜日午前10時から午後5

に公開しています。入場無料です。

興味がある方はそちらにもお出かけください。

水中に沈んでいた石垣で、実際に見るとかなり迫力があります。

そして、当時の福岡城があった時代にタイムスリップした気分を

味わうことができるかもしれません(^^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回は「大濠公園の水はしょっぱいって本当?」です。

大濠公園の水について詳しくなるかも!? こちらも楽しみにしてくださいね!

はや解き 福岡城(その3)~福岡城は山の一部を利用したって本当?~

 

関ケ原の戦いの後、豊前の中津藩からこの福岡(筑前)の地に転封された黒田家。

一旦、前領主の小早川秀秋の居城だった名島城に入城します。

しかし元々あった名島城は手狭で、発展していた「博多」の町からも遠かったことから新しい城を築くことにします。

 

まず4か所の候補地が挙がります。

1つ目は現在の博多区住吉神社の付近、2つ目は東区箱崎、3つ目は現在の西公園辺りの中央区荒戸山です。

そして最終的には土地の形状や、お城の防御などの点なども考え、現在の場所である当時福崎(ふくさき)と呼ばれた所に決まります。

 

このシリーズの「その1」にもありますが、福岡城の敷地は高さの違う4つの層が重なった形で構成されています。

実際の福岡城は広いため、一目で高さの違いを見ることは出来ませんが、この福岡城むかし探訪館内にある1/400スケールの模型をご覧いただくと良く分かります。(以下は模型写真です)

三の丸(標高5~8m)→二の丸(〃16~18m)→本丸(〃23m)の順に高くなり、1番高い所が天守台(〃36m)となります。

ではこの4つの高さの違い、実際どのようにして作ったのでしょうか?

 

通常、高さの違う台地を作るには盛り土という、土を積み上げて段階的に高さを変えていく方法があります。

しかし福岡城は少し違いました。

 

この福崎の地は北側は海、南側には小高い山が連なる丘陵地でした。

その丘陵地、赤坂山から続く自然の地形を最大限に利用します。

傾斜地を削りながら、また場所によってはその削った土を使用し、盛り土をして4つの層に整地していったのです。

 

また、お城の南側の丘陵地の一部は切り落として堀や平地を造りました。

お城の南側は水堀から三の丸まで急な斜面となっています。

 

元々の自然の山を利用して作られたお城。

高い所にある本丸には、山の水脈を利用したと思われる井戸が三か所残っており、今でも水を湛えています。

 

次回は「早解き福岡城(その4)~福岡市地下鉄は石垣を目覚めさせた?~」です。

はや解き 福岡城(その2)~福岡の本家は他所に?~

第1回目でも述べましたように、初代福岡藩主黒田長政は関ヶ原合戦で手がらをたて、徳川家康から筑前(現在の福岡)を与えられました。

ここから『福岡』という名前の歴史が始まっていきます!

それはなぜでしょう?

 

それまで、現在の福岡城のあたりは「福崎」と言われていました。

黒田官兵衛・長政親子が築城する際に、初めて「福岡」という名前が付いたのです。

 

さて、この「福岡」という名前は、どこからきたのでしょうか。

定説では、黒田家の故郷に因み付けたと言われています。

黒田家の故郷と言われる「福岡」は、現在の岡山県瀬戸内市で岡山市の東隣の市です。

現在でも黒田家ゆかりの場所があり、「福岡」という名前も多く残っています。

「福岡」の名前の本家は、岡山だったのですね。

「備中福岡城跡」というのもありますよ。

岡山なのに、福岡城。不思議ですね。

 

ところで、福岡の町は「福岡」と「博多」と両方使われていますが、どのように分かれているかご存知ですか?

福岡市の中央部、夜の繁華街である「中洲」を流れている「那珂川」。

この川から東側、古くから町人たちのまちとして栄えていたのが「博多」。

一方、官兵衛・長政が新しくお城を中心につくったまちが「福岡」でした。

 

江戸時代、その「福岡」と「博多」を分けていた門があります。

築城の際、那珂川沿いに架けた橋を渡った「福岡」側に石垣を築き作った「枡形門(ますがたもん)」です。

「博多」の町から入る人は、この門で検問を受け、武士の町「福岡」に関係のない人は入ることが出来ませんでした。

下の古地図の赤い丸印の場所が「枡形門」で、その下が明治時代の古写真です。

 

「天神」と「中洲」に架かる橋を通るときには、ここから「福岡」「博多」などを感じてみるのも楽しいかもしれませんね。

 

次回は『福岡城は 山の一部を利用したって本当?』というテーマです。お楽しみに!

 

はや解き 福岡城(その1)~福岡城とは~

「福岡城むかし探訪館」では、福岡城跡に来られた皆様にお城の概要の説明や、

回遊のご案内をしております。

 

しかしながら、今月の31日まで休館の予定ですので、ご自宅で福岡城の概要を

手軽に知っていただこうと、今回を始め7回シリーズでブログにより福岡城の

ご紹介をすることにしました。

 

 

福岡城は、黒田長政が関ヶ原の合戦で大きな手柄をあげたため、徳川家康から

この福岡の地(当時は筑前)を拝領しました。

以前の中津藩123千石から、523千石への大出世です。

 

その頃は、秀吉から天下を取るほどの器量をもつと恐れられていた父 官兵衛

(如水 じょすい)も生きておりましたので、二人で築いたと言われております。

(ただ、江戸にいる長政が自分の臣下に、親父が地元でいろいろ口出しをするだ

ろうが、自分のいうことだけを聞いていれば良いと言ったとか…いつの時代も同じですね)

 

お城は、他の地域でも一緒ですが、戦国時代が落ち着くと平地に城を築くのが

一般的になっており、福岡城も平地・湿地帯を利用して築城しました。

広さは福岡PAYPAYドーム7個分 (41万㎡)、東西1km、南北700mという広さです。

 

高さ的には三の丸、二の丸、本丸、そして天守台の四層構造です。

その間はもちろん至るところに石垣を築き、とても攻めにくいお城だったようです。

石垣の石は、元寇防塁、当初入城していた名島城、そして糸島半島にある可也山

(かやさん)などから運んできました。

 

周囲に巡らせたお堀には、約1.5km離れている福岡市の中心部を流れている那珂川

から水を引いて、博多湾に流し出しました。

 

これらの大工事を、ブルドーザーやダンプカーがない時代にたった7年間で完成させました。

すごいですね。大きな機械がないので、人を多く使ったのでしょうね。それだけ

藩主の力が大きかったということですね。

 

次回は 「福岡」の本家は他所に? というテーマです。是非楽しみにしてください。

 

      

黒田官兵衛(如水)                                                  黒田長政

お待たせしました!開館です!!

2月27日から臨時休館しておりました「福岡城むかし探訪館」

「鴻臚館跡展示館」ですが、3月21日より開館いたしました。

開館を心待ちにしていただいていたお客さま、お待たせいたしました!

 

そして、開館に合わせたかのように、福岡城跡の桜も開花し始めました。

今年は暖冬だったため、桜の開花も早まるかと思われましたが、

ほぼ例年どおりの開花となりました。

 

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、「福岡城桜まつり」は残念ながら中止

となりました。恒例の出店や夜間のライトアップなどはありませんが、城内を

自由に散策していただくことはできますので、ぜひ満開の桜を見にお越しください。

見頃は3月下旬で、あと1週間ほどで満開となりそうです。

 

また、「鴻臚館跡展示館」では、現在、遺構の修復作業を行っております。

展示館に一歩足を踏み入れるとすぐ目前に広がる巨大な遺構に、

来館者の皆様は一様に驚かれ、「本物ですか?」との質問をよく

受けますが、もちろん本物です!

 

発掘作業が終了した他の遺構は埋め戻されていますが、展示館部分の

遺構は覆い屋を建て、発掘された品々とともに公開しています。

今回の作業では、遺構の周囲の壁から浸水してくる水を外部へ排出

するための管を埋め込んでいます。

 

現在の遺構の修復作業は3月31日までの予定です。修復作業中も展示館は

通常通り開館していますので、作業の様子もあわせてご覧ください。

 

お馬さんたちも「福岡城むかし探訪館」横で待っています!

乗馬とお花見を同時に楽しみませんか?

「福岡城サムライライディング」につきましては、

詳しくは城内イベント情報をご覧ください。

 

 

コロナウイルスの感染が収束に向かい、国内外から多くのお客様に

お越しいただける日が早く来ますように、スタッフ一同願っております。

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