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ひも解き鴻臚館(その3) ~大宰府政庁との繋がり~

7世紀後半に九州の政治的な統括・対外交渉の窓口・貿易の要として、

筑前国(現在の福岡県北西部)に地方行政機関の大宰府が置かれました。

この大宰府の政務を取り扱っていたのが『大宰府政庁』でした。

 

みなさんは大宰府政庁の「大宰府」と、太宰府市の「太宰府」の違いが

分かりますか?

一般には、古代律令時代の役所およびその遺跡に関する「大宰府」、

中世以降の地名や太宰府天満宮については「太宰府」と明記されるように

なりました。

 

大宰府政庁は「遠の朝廷(とおのみかど)」とよばれ、

(中央政権)からは離れていましたが、

権限の大きさからそう呼ばれ、アジアとの外交と防衛などの大きな役割を担っていました。

万葉集の柿本人麻呂の歌にも「遠の朝廷」と表現されています。

平城京(平城京は唐の長安を参考)を模して造られ、碁盤の目状の街が広がり、

長官から雑用係も含めて1,000人以上の人が働いていたとも言われています。

ちなみに元号「令和」で脚光を浴びた大伴旅人は、大宰府政庁へ長官として赴任し

その手腕を発揮していました。

 

この大宰府の出先機関の一つが鴻臚館でした。「蕃客所」に属していて諸外国との

外交施設として、また、この辺りの警固(外敵から国を守る)を行う

「警固所」にも属していたようで、ともに大宰府を補助するための施設でした。

 

 

ところで、かつて大宰府政庁と鴻臚館とを結ぶ道があったことを、皆さんはご存じですか?

この道は官道といわれており、国によって整備・管理・維持がなされ現在の高速道路の

ようなものでした。

 

官道は中央集権と地方間の情報伝達手段として整備されたもので、こちらの官道は

外国からの使節団の到着を、鴻臚館から早馬を走らせ一刻も早く大宰府に伝達する

などといった大きな役割を担っていました。

 

この官道には、大宰府の防衛のため造られた「水城」において、東門と西門が整備され、

それぞれの門から博多湾岸方面に二本が並行して伸びていました。

このうち、鴻臚館と大宰府とを結ぶ道は西門を通る官道で、

幅約10m、長さは1316㎞の道になっていました。

その当時、早馬(時速20)で約40分、

徒歩(時速4)で約3時間20分かかっていたそうです。

外国使節や唐、新羅への遣使・留学生はこのルートで大宰府へ向かっていました。

 

ちなみに東門を通るルートは、大宰府と博多湾岸とを結んでおり、

朝廷から派遣された高級官人(国家公務員など)が利用していたそうです。

歴代の大宰府長官らもここを通ったのでしょうか?

このように西門ルートと東門ルートとでそれぞれの役割がありました。

現在はそのうちの一部が市道として活用されています。

次回のテーマは『遣唐使』です。

遣唐使と鴻臚館はどのような繋がりがあったのでしょうか?

お楽しみに~!

 

ひも解き 鴻臚館(その2)~鴻臚館の名前の由来~

 

鴻臚館が初めて文献上(日本書紀)に現れたのは、西暦688年でした。ただ、このときはまだ筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていました(「鴻臚館」の名称が初めて出てくるのは平安時代の838年)。

 

「鴻臚館」という字は難しい漢字ですが、当時の中国に、外国から来た使節に宿舎と食事を提供し、儀礼などを取り仕切る「鴻臚寺」という役所がありました。

 

「鴻」は白鳥など大型の水鳥を表し、「大きい」という意味、「臚」には「伝える・伝達する」という意味があります。2つの漢字を合わせて「使節の到来を大きな声で伝える」というような意味だそうですが、「鴻臚館」はこの中国の「鴻臚寺」の名称を引用したと言われています。

 

ちなみに、「鴻臚館」は福岡の他、難波(大阪)と平安京(京都)の3カ所に設けられたと言われていますが、その遺構が確認され国の史跡に指定されているのは当地だけです。

 

そこでは、前面の博多湾に突き出た丘陵地に、東西約70m、南北約60mの外周塀をもつ建物が2棟建てられ(第Ⅱ期~)、その中で外国からの使節をもてなしたり、また宿坊として提供したり、さらには中国大陸に渡る遣唐使などが旅装を整えたりしたとも伝えられています。

 

使節の往来が途絶えた後、当地の鴻臚館は交易の拠点となり、1047年に放火されたとの記録を最後に歴史の表舞台から姿を消します。

 

 

現在では、世界各国からの重要なお客様をお迎えする場所は、迎賓館赤坂離宮(東京)や京都迎賓館が中心で、福岡には迎賓館はありませんが、古来より大陸と近いこともあって海外との窓口の役割を担う重要な場所であり続けています。

 

一昨年、福岡で行われた国際会議後のレセプションでは、多くの方々が鴻臚館跡展示館に集われ、約1000年ぶりに迎賓館としての役割を担いました。

 

 

次回は、「大宰府政庁」との繋がりです。いったいどんな!?

 

ひも解き 鴻臚館(その1) ~プロローグ~

 

福岡市の中心部に近く、多くの緑に囲まれた舞鶴公園。ここは江戸時代に福岡城があったところです。

その一角、平和台球場跡地の芝生広場の南側に、お城とは結び付かない大きな古風な建物が見えます。これは広く市民の方などに当地の歴史・由来などを知っていただくため、平成7年から無料で公開している「鴻臚館跡展示館」です。

 

「鴻臚館」。とても難しい漢字ですが“こうろかん”と読みます。

名前も もちろんですが、一体いつ頃、どういった役割を果たしていたものなのか知っている人はそう多くないようです。

飛鳥から平安時代の頃は、現在のお堀の近くに海岸線があったと考えられ、この地を拠点に中国大陸・朝鮮半島との外交・交易が行われていました。そして、ここから国内に新しい文化や宗教、品々が広まっていきました。

 

このような鴻臚館の歴史、役割、そして発見のきっかけなどを、これから6回にわたってご紹介します。

早速、次回は名前の由来や、役割などについてです。お楽しみに!

 

  鴻臚館跡展示館 全景

 

  館内の状況

 

「ハートをさがせ!」 福岡城編

 

「ウォーリーをさがせ!」ではなく「ハートをさがせ!」、ということで福岡城跡でハートを探してみました。

上之橋からスタートし下之橋のゴールまで果たしていくつ見つけることができるでしょうか?

 

まず、上之橋を渡っていると、正面の左側、お堀の上に高くそびえる石垣の中にさっそく発見!

 

 

これは幸先がいい!と、そのまま鴻臚館広場を進み東御門跡まで行くと、

テニスコートの横の石垣のなかにも!

 

 

東御門跡から鴻臚館跡展示館に向かって歩いていたら、ちょっとお茶目なこんな

ハート石を、さらに進むと、白いハートの模様のある石をみつけました。

 

 

 

引き返して、東御門跡の石段を上がっていくと目の前に現れるのがこちらのハート!

 

 

扇坂を上がり、梅園を通り抜け、表御門跡の階段を上がっていると右側の石垣にもありました!

 

 

裏御門跡から桐木坂御門跡に向かっていると こんな石もありました。

斜めから見たら見えなくもない?!

 

 

さらにしょうぶ園へと進む途中の石垣の中には、ハートの形の刻印があります。

 

 

つつじ園奥の石垣に沿って下之橋御門跡へと歩きながら、ふと空を見上げると

木の葉さえハートにみえてきました。

 

 

なんと、ゴールの下之橋御門跡の柱の近くにもありました。

 

 

そして御門の扉の金具の中にまで!

 

 

下之橋を渡るとそこは城外になりますが、こんな番外編も見つけました。

明治通りの歩道にあるマンホールです。

 

 

目を凝らしてよくみると

 

 

こんな所にもハートがありました。これは福岡に「来い」と「恋」を掛けた

「FUKU 51 MANHOLE (フク コイ マンホール)」限定51枚のうちの一つです。

上之橋近くにもありますよ。

 

いつもとは違う目線で城内を散策されませんか?

 

城内の他の場所でもハートを見つけられたら、是非スタッフに教えて下さい!

お待ちしています。

 

福岡城 初夏の最新情報

 

日中は汗ばむ気温の日も多くなり、半袖姿の方も目立ち始めました。城内は、緑色が濃くなり夏の花々が顔を見せ始めています。梅雨入り前に、初夏の城内散策を楽しみませんか。

 

初夏を代表する花といえば、紫陽花。下之橋御門、牡丹芍薬園、6号堀などで咲き始めています。

 

多聞櫓の真下に位置する菖蒲園。昨年整備され、遊歩道が歩きやすくなりました。紫と白のコントラストが美しい菖蒲は今が見頃です。

 

 

下之橋御門の北側では、黄色い睡蓮、それらの水面に浮かぶ葉の間を歩くアオサギ。また、6号堀ではピンクの睡蓮も楽しむことができます。

  

 

 

現在、城内では「祈念櫓」や「潮見櫓」など、各所の修復・復元作業も着々と進んでいます。

「祈念櫓」の石垣修復工事は、全体の三分の一ほどが解体されているようです。進捗状況が現場のボードで確認できますよ。

 

 

また、福岡市の文化財部のFacebookでは、石垣保存修復工事の動画を見ることができますので、

ぜひチェックしてみてください。

https://www.facebook.com/福岡市の文化財-529576117094595/

 

三の丸広場北西の「潮見櫓」復元予定地でも、5月から石垣の修復工事が始まっています。地下鉄大濠公園駅近くの明治通り沿いから、工事の様子を見ることができます。

 

福岡城むかし探訪館、鴻臚館跡展示館へもぜひ足をお運びください。

スタッフ一同、お待ちしております。

 

はや解き 福岡城 (その7)  ~お城の建物は戦争で焼けたの?~

福岡城のはや解きも、本日で最終回となりました。

今回はお城の建物がなぜ残っていないのか?焼けたのか?

について、ご紹介いたします。

 

福岡城の城内には藩主の住まいや、藩を治める役所の建物、家老屋敷、

そして、47の櫓や10の門などがありました。

「福岡城むかし探訪館」が建っているあたりも、江戸時代は家老屋敷が

並んでいたと考えられています。

 

明治時代になると、当時の政府の役職であった太政官から廃城令という

命令が出されました。(明治6年)

これに基づき、福岡城は陸軍が使用する軍用地となり、併せて従来からの

建物等で陸軍による使用がされないものについては、解体や移築されることに

なったのです。多くの櫓や門なども解体され、黒田家のゆかりのお寺に

移築されるなどして、ほとんど城内からなくなりました。

 

お城によっては、軍用地として城跡が利用されるため、石垣を壊されるところも

ありましたが、幸い福岡城の石垣は壊されずに、今でも当時の姿で残っています。

ちなみに、福岡県庁も明治4年から福岡城内に置かれていました。

 

一方、江戸時代、弓矢や槍などの様々な武器を収めていた武具櫓は、

大正時代に現在の中央区浜の町にあった黒田家の別邸に建物の大きさを変え

移設されました。しかしながら、昭和20年の空襲で焼けてしまいました。

●福岡城に在りし日の武具櫓

 

また、黒田家ゆかりのお寺といえば博多区千代にある、崇福寺が有名ですね。

黒田官兵衛・長政などのお墓があるお寺です。

ここに移築された福岡城の表御門は、幸い空襲を免れ、現存しています。

下の写真は明治時代()と現在()の表御門の姿です。

●明治初期の福岡城 表御門        ●現在の崇福寺 山門

 

その後、一部の櫓が城内に再移築されてきたり、

また、下の写真の櫓や門などが、福岡市により復元整備を目指されているところです。

やがて昔の面影がより感じられることになりそうです。楽しみですね!

●潮見櫓(再建に向け福岡市で保存中)   ●上之橋御門(明治時代の様子)

 

 

福岡城では新緑のグラデーションがきれいな初夏を迎えております。

これからの時期は菖蒲や紫陽花が見ごろを迎えます。

お散歩がてら、福岡城に、そして福岡城むかし探訪館にもお出かけください。

 

 

 

 

 

 

 

はや解き 福岡城(その6)~天守閣ってあったの?~

お城のシンボルと言えば、天守閣!その存在が謎に包まれているのが福岡城の天守閣です。

 

福岡城が描かれた地図として最も古いのが福博惣絵図です。

1646年に描かれたものですが、この地図には天守閣がなく、また福岡藩には天守閣に関する資料がないことから、長政は江戸幕府に忠誠を尽くすことを示すために天守閣を造らなかったと言われてきました。

ところが近年、天守閣の存在をうかがわせる文献がでてきました。

 

江戸時代の初期、お隣の豊前小倉藩にいた細川忠興という大名が、1620年三男忠利に宛てた書状に

「黒田長政が幕府に配慮し天守閣を取り壊すと語ったらしい」という記載があるのが発見されたのです。

また同年同じく細川忠興が家臣の松井興長に宛てた書状には

「天守閣を壊して石垣の石も大阪城の工事に持っていく」とも書かれていました。

 

さらに、築城開始の翌年、1602年に黒田長政が家臣の黒田一成に宛てた書状に、

「今月中に天守閣の柱立てを行うように命ずる」という記載がありました。

こちらは現在の福岡城の写真です。天守台に上がる最後の階段の右側にはいくつもの礎石があります。

 

 

ということは、この礎石の上には天守閣の柱が立っていたのでは!

こちらがCGを使って再現した柱の様子です。

 

 

そしてその柱の上にはこのような天守閣があったのでは?

 

 

こちらも同じくCGを使って再現したものです。

 

これらの存在を思わせる内容の書かれた古文書の発見により、実際には天守閣を造ったものの10数年で取りこわしたのでは?との議論を呼んでいます。

では、なぜ取りこわさなければいけなかったのか?そこには外様大名としての長政の立場や当時の時代背景が大きくかかわっているようです。

 

江戸時代では幕府の許可を得ずにお城の建物などを勝手に修理したりすると領地を取り上げられました。

1619年福島正則が無断で城を修理したため、広島藩49.8万石から高井野藩(信濃高井郡2万石 越後魚沼郡2.5万石の合わせて4.5万石)へと減封の上移封となりました。

軍事施設としての城の増改築はお家取りつぶしにもつながるため、黒田家をはじめとする外様大名は幕府に対して非常に気を使ったとのこと。

 

また戦国時代が終わりをむかえ、徳川幕府の世が安定期に入ると、幕府は全国の諸大名に命じ大阪城や名古屋城など天下普請が盛んに行われるようになり、藩の財政は苦しくなる一方でした。

1638年島原の乱の功績に対して「天守閣などを建設(再建)されたいときもあるだろうから、そのときは将軍様のご意向を得られるが良い・・・」と、幕府からの申し出が書かれた古文書も見つかりましたが、再建された事実はありません。

 

このように、天守閣の存在は謎ですが、城内には櫓や門など多くの建物がありました。

しかしながら、現在残っている建物はほとんどありません。どうしてなのか?

答えは次回の「お城の建物は戦争で焼けたの?」で!

 

 

 

 

 

はや解き 福岡城(その5)~大濠公園の水はしょっぱいって本当?~

ジョギングや散策、レンタルボートなどで多くの人たちが楽しむ全国屈指の水景

公園、大濠公園。広さは39万8千平方メートル(福岡PayPay ドーム約6個分)あ

り、そのうち半分以上の広さを池が占めています。

 

 

このシリーズの「その4」でもお話しましたが、福岡城は周囲をぐるりと堀で囲

まれていて、福岡城の西側に位置する大濠公園もまた、福岡城の堀の一部でした。

 

 

福岡城が築かれた頃は、大濠公園のある一帯は博多湾へとつながる入り江でした

が、築城する際にその北側部分を埋め立てて町を造るとともに、入り江となって

いた部分をそのまま堀として利用しました。

「大きな堀」だったので「大堀」です。この「大堀」の字が「大濠」へと変わった

のは明治時代以降です。

 

一方、築城の際、お城を囲む堀は、肥前堀などを掘削して福岡市の中心部・中州の

そばを流れる那珂川まで繋げました。これにより、那珂川から取り込まれた水は

城の周囲を巡って、大堀につながる黒門川から博多湾へと流れ出ました。

このように福岡城は川の水を巧みに利用して、堀の水を循環させていたのです。

 

また、これに伴い元もと大堀に流れ込んでいた樋井川(ひいがわ)は、二本の

河川からの流水により堀の水が溢れるのを防ぐため、進路は鳥飼付近で大きく西へと曲げられました。

 

明治時代に入り、那珂川とつながっていた肥前堀などは埋め立てられ、そこは市

役所や商業施設用地として利用され、大堀も昭和2年の「東亜勧業博覧会」の会場と

なった際に埋め立てられて、以前の半分の大きさとなりました。その後、公園とし

て整備され「大濠公園」が誕生しました。

 

さて、現在の大濠公園の水はしょっぱいのかどうか?

水の成分を実際に測定すると、ほぼ真水だそうですが、詳細な分析では、築城前ま

では博多湾の入り江だったことなどから、今でもほんの少し塩分も検出されるようです。

 

現在、大濠公園の池の水は浄化装置により浄化されていますが、飲むことはできません。どのくらいしょっぱいかな!?とこっそり舐めたりしたらダメですよ!

 

次回は、福岡城最大のミステリー「天守閣ってあったの?」です。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はや解き 福岡城(その4)~福岡市地下鉄は石垣を目覚めさせた?~

福岡城はとても攻めにくいお城だったと言とわれていますが、その理由の

一つに、常に周囲を水で囲まれるようにした「水堀」があったからです。

その堀の幅は、上之橋から下之橋では60mから70mあったとされ、

他藩の城と比べても広く、このように内郭を幅の広い一重の堀で取り囲む

例は、近世城郭ではあまり見られないものだと言われています。

 

しかしながら、明治43年に市内電車をこの辺りの前面の道路上を走らせる

ときに、その一部堀が埋め立てられ、2/3程の幅になりました。

軌道が敷設され、路面電車が走ることにより荒戸・黒門・地行一帯が

賑わいをみせるようになったようです。

 

その後、昭和51年に同道路下での地下鉄工事の際に、埋められていたお堀の

石垣が発見されました。長政公が築造して約400年後に再びこの石垣が脚光を

浴びることになったのです。凄いですね!! 一時は地下鉄の路線変更の話も

出たようですが、現実的には変更の余地はありませんでした。その一方で

発見された石垣を「部分保存」することになりました。

 

この福岡城跡堀石垣は、明治通りの赤坂交差点から西へ2分ほど歩いた

ところで見ることができます。毎週土曜と日曜日午前10時から午後5

に公開しています。入場無料です。

興味がある方はそちらにもお出かけください。

水中に沈んでいた石垣で、実際に見るとかなり迫力があります。

そして、当時の福岡城があった時代にタイムスリップした気分を

味わうことができるかもしれません(^^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回は「大濠公園の水はしょっぱいって本当?」です。

大濠公園の水について詳しくなるかも!? こちらも楽しみにしてくださいね!

はや解き 福岡城(その3)~福岡城は山の一部を利用したって本当?~

 

関ケ原の戦いの後、豊前の中津藩からこの福岡(筑前)の地に転封された黒田家。

一旦、前領主の小早川秀秋の居城だった名島城に入城します。

しかし元々あった名島城は手狭で、発展していた「博多」の町からも遠かったことから新しい城を築くことにします。

 

まず4か所の候補地が挙がります。

1つ目は現在の博多区住吉神社の付近、2つ目は東区箱崎、3つ目は現在の西公園辺りの中央区荒戸山です。

そして最終的には土地の形状や、お城の防御などの点なども考え、現在の場所である当時福崎(ふくさき)と呼ばれた所に決まります。

 

このシリーズの「その1」にもありますが、福岡城の敷地は高さの違う4つの層が重なった形で構成されています。

実際の福岡城は広いため、一目で高さの違いを見ることは出来ませんが、この福岡城むかし探訪館内にある1/400スケールの模型をご覧いただくと良く分かります。(以下は模型写真です)

三の丸(標高5~8m)→二の丸(〃16~18m)→本丸(〃23m)の順に高くなり、1番高い所が天守台(〃36m)となります。

ではこの4つの高さの違い、実際どのようにして作ったのでしょうか?

 

通常、高さの違う台地を作るには盛り土という、土を積み上げて段階的に高さを変えていく方法があります。

しかし福岡城は少し違いました。

 

この福崎の地は北側は海、南側には小高い山が連なる丘陵地でした。

その丘陵地、赤坂山から続く自然の地形を最大限に利用します。

傾斜地を削りながら、また場所によってはその削った土を使用し、盛り土をして4つの層に整地していったのです。

 

また、お城の南側の丘陵地の一部は切り落として堀や平地を造りました。

お城の南側は水堀から三の丸まで急な斜面となっています。

 

元々の自然の山を利用して作られたお城。

高い所にある本丸には、山の水脈を利用したと思われる井戸が三か所残っており、今でも水を湛えています。

 

次回は「早解き福岡城(その4)~福岡市地下鉄は石垣を目覚めさせた?~」です。

はや解き 福岡城(その2)~福岡の本家は他所に?~

第1回目でも述べましたように、初代福岡藩主黒田長政は関ヶ原合戦で手がらをたて、徳川家康から筑前(現在の福岡)を与えられました。

ここから『福岡』という名前の歴史が始まっていきます!

それはなぜでしょう?

 

それまで、現在の福岡城のあたりは「福崎」と言われていました。

黒田官兵衛・長政親子が築城する際に、初めて「福岡」という名前が付いたのです。

 

さて、この「福岡」という名前は、どこからきたのでしょうか。

定説では、黒田家の故郷に因み付けたと言われています。

黒田家の故郷と言われる「福岡」は、現在の岡山県瀬戸内市で岡山市の東隣の市です。

現在でも黒田家ゆかりの場所があり、「福岡」という名前も多く残っています。

「福岡」の名前の本家は、岡山だったのですね。

「備中福岡城跡」というのもありますよ。

岡山なのに、福岡城。不思議ですね。

 

ところで、福岡の町は「福岡」と「博多」と両方使われていますが、どのように分かれているかご存知ですか?

福岡市の中央部、夜の繁華街である「中洲」を流れている「那珂川」。

この川から東側、古くから町人たちのまちとして栄えていたのが「博多」。

一方、官兵衛・長政が新しくお城を中心につくったまちが「福岡」でした。

 

江戸時代、その「福岡」と「博多」を分けていた門があります。

築城の際、那珂川沿いに架けた橋を渡った「福岡」側に石垣を築き作った「枡形門(ますがたもん)」です。

「博多」の町から入る人は、この門で検問を受け、武士の町「福岡」に関係のない人は入ることが出来ませんでした。

下の古地図の赤い丸印の場所が「枡形門」で、その下が明治時代の古写真です。

 

「天神」と「中洲」に架かる橋を通るときには、ここから「福岡」「博多」などを感じてみるのも楽しいかもしれませんね。

 

次回は『福岡城は 山の一部を利用したって本当?』というテーマです。お楽しみに!

 

はや解き 福岡城(その1)~福岡城とは~

「福岡城むかし探訪館」では、福岡城跡に来られた皆様にお城の概要の説明や、

回遊のご案内をしております。

 

しかしながら、今月の31日まで休館の予定ですので、ご自宅で福岡城の概要を

手軽に知っていただこうと、今回を始め7回シリーズでブログにより福岡城の

ご紹介をすることにしました。

 

 

福岡城は、黒田長政が関ヶ原の合戦で大きな手柄をあげたため、徳川家康から

この福岡の地(当時は筑前)を拝領しました。

以前の中津藩123千石から、523千石への大出世です。

 

その頃は、秀吉から天下を取るほどの器量をもつと恐れられていた父 官兵衛

(如水 じょすい)も生きておりましたので、二人で築いたと言われております。

(ただ、江戸にいる長政が自分の臣下に、親父が地元でいろいろ口出しをするだ

ろうが、自分のいうことだけを聞いていれば良いと言ったとか…いつの時代も同じですね)

 

お城は、他の地域でも一緒ですが、戦国時代が落ち着くと平地に城を築くのが

一般的になっており、福岡城も平地・湿地帯を利用して築城しました。

広さは福岡PAYPAYドーム7個分 (41万㎡)、東西1km、南北700mという広さです。

 

高さ的には三の丸、二の丸、本丸、そして天守台の四層構造です。

その間はもちろん至るところに石垣を築き、とても攻めにくいお城だったようです。

石垣の石は、元寇防塁、当初入城していた名島城、そして糸島半島にある可也山

(かやさん)などから運んできました。

 

周囲に巡らせたお堀には、約1.5km離れている福岡市の中心部を流れている那珂川

から水を引いて、博多湾に流し出しました。

 

これらの大工事を、ブルドーザーやダンプカーがない時代にたった7年間で完成させました。

すごいですね。大きな機械がないので、人を多く使ったのでしょうね。それだけ

藩主の力が大きかったということですね。

 

次回は 「福岡」の本家は他所に? というテーマです。是非楽しみにしてください。

 

      

黒田官兵衛(如水)                                                  黒田長政

お待たせしました!開館です!!

2月27日から臨時休館しておりました「福岡城むかし探訪館」

「鴻臚館跡展示館」ですが、3月21日より開館いたしました。

開館を心待ちにしていただいていたお客さま、お待たせいたしました!

 

そして、開館に合わせたかのように、福岡城跡の桜も開花し始めました。

今年は暖冬だったため、桜の開花も早まるかと思われましたが、

ほぼ例年どおりの開花となりました。

 

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、「福岡城桜まつり」は残念ながら中止

となりました。恒例の出店や夜間のライトアップなどはありませんが、城内を

自由に散策していただくことはできますので、ぜひ満開の桜を見にお越しください。

見頃は3月下旬で、あと1週間ほどで満開となりそうです。

 

また、「鴻臚館跡展示館」では、現在、遺構の修復作業を行っております。

展示館に一歩足を踏み入れるとすぐ目前に広がる巨大な遺構に、

来館者の皆様は一様に驚かれ、「本物ですか?」との質問をよく

受けますが、もちろん本物です!

 

発掘作業が終了した他の遺構は埋め戻されていますが、展示館部分の

遺構は覆い屋を建て、発掘された品々とともに公開しています。

今回の作業では、遺構の周囲の壁から浸水してくる水を外部へ排出

するための管を埋め込んでいます。

 

現在の遺構の修復作業は3月31日までの予定です。修復作業中も展示館は

通常通り開館していますので、作業の様子もあわせてご覧ください。

 

お馬さんたちも「福岡城むかし探訪館」横で待っています!

乗馬とお花見を同時に楽しみませんか?

「福岡城サムライライディング」につきましては、

詳しくは城内イベント情報をご覧ください。

 

 

コロナウイルスの感染が収束に向かい、国内外から多くのお客様に

お越しいただける日が早く来ますように、スタッフ一同願っております。

祈念櫓はどこへ?

家の立地場所決めや部屋のレイアウトを行う際、「風水」は気になりますか?
戦国時代において、多くの大名たちが城を建てる際には「鬼門(きもん)」をかなり意識していたようです。
“災い=鬼”が入って来ると言われていた「鬼門(きもん)」の方角である北東には、多くの城が「鬼門除け(きもんよけ)」を施していました。

「鬼門除け」には寺や神社を建てる他にも、開かずの門を作る、塀や堀を凹ませるなど様ざまな形態があったようです。

 

ここ福岡城においては、「祈念櫓(きねんやぐら)」と「水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)」(2019.9.29当館ブログ「古地図から見る福岡城」をご参照ください)の2つの建物が「鬼門除け」として、城および城下町を守っていました。

 

福岡城内本丸の北東隅に立つ「祈念櫓」

 

 

さて、福岡城の祈念櫓のあるべき場所ですが、現在はこうなっています。

 

 

石垣の保存補修工事に伴い、祈念櫓の建物は解体されており、残念ながら見ていただくことはできません。
建物がないのは寂しい限りですが、三の丸のラグビー場から祈念櫓の石垣はよく見えるので、工事の過程を見ていただくことはできます。

 

 

石垣の石一つひとつが貴重な歴史の資料であり、確認しながら工事を進めていくのは大変な作業だと思われます。

石垣の保存補修工事は令和4年3月31日までの予定となっていますので、興味のある方は足を運んでみてください。

 

また、城内では梅に続き、早咲きの桜も咲いています。

 

 

散策が楽しい季節がやってきました。春めく城内にお越しの際は、福岡城むかし探訪館へもぜひお立ち寄りください。スタッフ一同、お待ちしております。

 

 

福岡城跡の梅

暦のうえでは立春を迎え、福岡城跡でも少しずつ
春の気配を感じるようになってきました。

 

二の丸の梅園では、梅の花が見ごろです。
園内は、風に吹かれほのかに甘い梅の香りがします。
新元号の「令和」になって、初めて梅の季節を迎えますね。
「令和」は大伴旅人が大宰府の地で行った「梅花の宴」で詠まれた
和歌の序文の文言を引用した元号ですが、
今年は特に梅の花が感慨深いものに感じられます。

 

石垣をバックに色とりどりの梅にも風情があります。

 

松の木坂では、水仙と梅を同時に観ることができて、
とても綺麗です。

 

2/15(土)・2/16(日)には、ここ二の丸の梅園で「梅まつり」が
開催されます。詳しくは舞鶴公園管理事務所ホームページ
まだまだ寒い日が続きますが、春の訪れを感じに福岡城跡へ
散策にお越しください(^^♪

博多松囃子

松の内、鏡開きと終わり、お正月の雰囲気もずいぶんと薄れてきました。

 

〈鏡開き〉や〈どんと焼き〉ご存知ですか?

 

でも、中国や韓国など東南アジアでは、旧暦に沿ってこれからがお正月。
春節のお休みになりますね。
今年の旧正月は1月25日とのこと。

 

 

江戸時代、旧暦のお正月には、福岡城に博多松囃子(はかたまつばやし)と呼ばれる一行が、お殿様へ新年の挨拶に訪れていたそうです。ちょうど今頃の時期ですね。

松囃子は本来小正月(旧正月15日)の行事で、新しい年に祝福をもたらす歳神様を迎える民族行事が芸能化したものです。

繁栄を祈って山から神の依代である松を伐って家に招き入れることを「松囃子」と呼び、その〝はやし〟を歌舞音曲の意に解して、芸能としての松囃子が生まれたのであろうと言われています。

 

元々京の都から各地に伝わったようで、室町時代が最盛期であり、博多では1539年の正月に松囃子が行われていたことや、1595年に当時筑前を治めていた 領主の小早川秀俊(秀秋)が博多の町衆から訪問を受けたという記録があります。

その後、福岡藩の時代には松囃子の一行が、博多の町から福岡城の藩主を訪問するようになりました。
一行は先導する笠鉾に続き、馬に乗った三福神と稚児、その後ろに「通りもん」と呼ばれる仮装をした人々や山車(だし)が続く、長いにぎやかな行列でした。

 

今でもこの祝賀、晴(ハレ)の様子を福岡城で目にすることが出来ます。
この松囃子はその後形を変え、現在の「博多どんたく」となっています。
「博多どんたく」開催期間中の5月4日には、江戸時代さながらの松囃子の一行が、福岡城へ表敬訪問し、黒田家子孫の方から〝一束一本〟を受け取る様子をご覧いただけます。

詳しくは 2019.5.6ブログ「福岡城に〝松ばやし〟がやってきた!」をご覧ください

 

「博多松囃子」はこのほど、国の重要無形民俗文化財に指定されることになりました!
旧正月の行事が長きにわたって継承され、これからも街の発展を願い続けられていく…。
晴(ハレ)の時期に相応しい嬉しいニュースですね (^^)/

福岡城天守台の初日の出と三社詣

そろそろお正月気分もなくなってきた頃かもしれませんが・・・ちょっとお正月のお話を!

令和になって初めての元旦に、スタッフ数名で福岡城天守台から初日の出を拝んできました。
綺麗な朝焼けの後、建物の間からでしたがとても力強い初日の出を見ることが出来ました。
 
天守台には、50人以上の方がいらっしゃったように思います。

 

その後、黒田家ゆかりの神社へ三社詣してきました。
まずは、黒田官兵衛・長政親子が祀られている「光雲(てるも)神社」、福岡城築城時に本丸の場所にあり、現在の天神に移された「警固神社」。
 

 

そして、福岡藩初代藩主黒田長政によって福岡城の鬼門にあたる場所に移された「水鏡天満宮」へと参拝してきました。

 

4つ目になりますが、警固神社が移されたときに一緒に合祀され、後に現在の場所に移された「小烏(こがらす)神社」にも行ってきました。

 

更に後日、福岡藩主が三社詣に訪れたと言われる神社も行ってきました!
「筥崎宮」、「住吉神社」、そして博多区山王にある「日吉神社」の三か所を訪れていたそうです。
福岡藩主黒田長政は、「筥崎宮」の「一之鳥居」を建立し、「住吉神社」の現在の社殿を再建しました。
 

 

「日吉神社」は、古くから現在の場所に鎮座され、疱瘡(ほうそう)除けの神としての信仰も集めていたので、疱瘡になったときに黒田家が訪れていたと神社の方に教えてもらいました。

 

福岡には、まだまだ多くの黒田家のゆかりの場所がございます。
まずは、福岡城跡から散策してみてはいかがでしょうか。
本年も、皆様のご来館を心からお待ちしております。

 

幻想的な福岡城

紅葉のシーズンが終わり葉も落ち、

石垣が見渡しやすい冬がやってきました。

福岡城跡では、

2019年11月29日(金) ~ 2020年2月2日(日)まで

『 チームラボ 福岡城跡 光の祭 』が開催中されています。

 

福岡城は石垣の素晴らしさから、別名「 石城 」ともよばれています。

日中のクールでモノトーンな世界から、

夜は幻想的でカラフルな石城へ変貌します。

 

*本丸

冬の空気で よりキリッとした印象。

*天守台下 右手

石垣を登ると右手に八咫烏(やたがらす)がたくさん現れました。

福岡城とゆかりのある小烏神社のご祭神でもあります。

石垣から私たちをを見守ってくれているようですね。

 

*天守台から見た本丸

手前の鉄御門(くろがねごもん)跡の石垣

遠くに見えるマンションと、

時代の移り変わりに思いをはせることができます。

 

*天守台 石垣

様々な動物が今にも飛び出しそうな勢いです。

石垣がスクリーンのようでした。

 

 

*お絵かき黒田官兵衛

こちらは福岡城にちなんだイベントです。

色を塗った官兵衛たちが踊りだします♪

 

こちらは黒田官兵衛(左)と長政(右)親子

なにやら秘密の相談でもしているのでしょうか・・

 

詳しいイベント情報はこちら

 

そして日中は福岡城跡の予習がてら

「 福岡城むかし探訪館 」、また 「 鴻臚館跡展示館 」にもお越しください。

スタッフ一同、お待ちしております。

 

 

ラグビーワールドカップと舞鶴公園

ラグビーワールドカップ、盛り上がりましたね。

 

日本のベスト4をかけた試合が行われた10月20日、舞鶴公園でもパブリックビュー

イングが行われ、日本代表のジャージーを着たファンなど約3200人(主催者発表)

が詰め掛けたそうです。

 

この期間は海外からのお客さまも舞鶴公園内にある当館、及び鴻臚館跡展示館に

たくさん来ていただきました。

 

今年と昨年の9月10月の外国人来館者数を比べてみると、当館で約3倍に、

鴻臚館跡展示館では約2倍になりました。。

 

海外からのお客様には、福岡城や鴻臚館はどのように映るのでしょうか?

 

先日タブレットツアーに参加されたアメリカ人のご夫婦に話を聞いてみました。

 


 

福岡城の石垣を見て、スコットランドにあるエディンバラ城やアーカート城を思い

出す、とのこと。

ネットでエディンバラ城を調べてみたら、「Castle Rock」という言葉が出てきて

びっくり!!

実は、福岡城は石垣が素晴らしいので、「岩」ではありませんが、「石城」とも

言われているからです。

 

また、石段の高さにも、それぞれ異なる仕掛けがあることがわかりました。

 

城内の石段は 武士が普段、袴を着て上がれますが、鎧を身に着けたらその重さで

足が上げにくい高さで作ってあるのに対して、スコットランドでは、同じペースで

上がっていったら途中でつまずくように、ところどころで階段の高さに変化を持た

せて造っているそうです。

 

アメリカのゲティスバーグにも南北戦争の時に盛り土で築いた土手があるそうで、

福岡城の土塁を見て、場所と時代は違っても、防衛の仕方は似てると思ったそうです。

 

一方、鴻臚館に来られたイギリスの客さまは、

「自分が住んでいる所にも遺構がある。トイレ(bathroom)ではなく、お風呂

(bath)だけど!」と、その遺構の名前を書いたメモを残して去っていかれました。

 

お風呂の語源にもなっているバース にある「The Roman Baths」という遺構でした。

 

鴻臚館跡展示館では、古代の人が使っていたトイレットペーパーを見ることができます。

というのは、トイレの遺構が発掘されたからです。

鴻臚館広場のこの辺りです。

 


 

カナダから来られたお客さまは、この赤でマークしてある所までわざわざ行かれ

て、トイレのポーズで記念撮影をされていました。

 

ドイツでは、今でも土を掘ったら、ローマ帝国時代のものが出てくると話してくだ

さったお客様もいらしゃいました。

同様に、隣接する裁判所跡の発掘調査で何か見つかるといいですね。

 

海外からこられたお客さまのお声を聴き、二重の国史跡の指定を受けている舞鶴公

園には世界の歴史と重なるものがあることがわかりました。これからも、もっと多

くのお客様のお話をきいて、新しい発見が出来ればと思います。

 

これから寒くなりますが、歴史を感じに散策にこられませんか?

スタッフ一同、「ONE TEAM(ワンチーム)」でお待ちしております。

 

 

 

親子で大発見!?~お城のウラはワクワクビックリ~

11月17日(日)、親子で福岡城を巡るイベントを開催しました。

天候にも恵まれ、小学生25名を含む総勢57名のお客様に

参加いただきました。


 

福岡城は、残念ながら建物はほとんど残っていませんが、

縄張りや石垣は江戸時代からほぼそのままのかたちを留めており、

それが見どころの一つでもあります。

今回の親子ツアーは、福岡城の歴史とともに、「石城」とも呼ばれた福岡城の

立派な石垣を見ていただき、石垣についても学んでいただこうという初の試みです。

  

 

ふだん皆様にご案内しているいわゆる「表ルート」ではなく、「裏ルート」を探検!

実験やクイズなども楽しみながら、土塁の上などが歩ける穴場スポット(?)

でもある福岡城の裏側を回りました。

 

福岡城で見られる主な石垣は、「野面(のづら)積み」「割石(わりいし)積み」

「算木(さんき)積み」の三種類です。

石垣のそれぞれの特徴や、どの石垣が城内のどの場所で使われているかを

学びながら、石垣地図も作成しました。

 

多聞櫓の中にも入りましたよ!

 

足場の悪い場所もたくさん歩きましたがケガもなく、約1時間半のツアーも無事終了。

福岡城の歴史や石垣について詳しくなれたかな?!

 

冬になると木の葉が落ちて石垣がもっときれいにみえるようになります。

ぜひ、福岡城へお越しいただき勇壮な福岡城の石垣をお楽しみください。

スタッフ一同、お待ちしております。

 

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