お城のシンボルと言えば、天守閣!その存在が謎に包まれているのが福岡城の天守閣です。

 

福岡城が描かれた地図として最も古いのが福博惣絵図です。

1646年に描かれたものですが、この地図には天守閣がなく、また福岡藩には天守閣に関する資料がないことから、長政は江戸幕府に忠誠を尽くすことを示すために天守閣を造らなかったと言われてきました。

ところが近年、天守閣の存在をうかがわせる文献がでてきました。

 

江戸時代の初期、お隣の豊前小倉藩にいた細川忠興という大名が、1620年三男忠利に宛てた書状に

「黒田長政が幕府に配慮し天守閣を取り壊すと語ったらしい」という記載があるのが発見されたのです。

また同年同じく細川忠興が家臣の松井興長に宛てた書状には

「天守閣を壊して石垣の石も大阪城の工事に持っていく」とも書かれていました。

 

さらに、築城開始の翌年、1602年に黒田長政が家臣の黒田一成に宛てた書状に、

「今月中に天守閣の柱立てを行うように命ずる」という記載がありました。

こちらは現在の福岡城の写真です。天守台に上がる最後の階段の右側にはいくつもの礎石があります。

 

 

ということは、この礎石の上には天守閣の柱が立っていたのでは!

こちらがCGを使って再現した柱の様子です。

 

 

そしてその柱の上にはこのような天守閣があったのでは?

 

 

こちらも同じくCGを使って再現したものです。

 

これらの存在を思わせる内容の書かれた古文書の発見により、実際には天守閣を造ったものの10数年で取りこわしたのでは?との議論を呼んでいます。

では、なぜ取りこわさなければいけなかったのか?そこには外様大名としての長政の立場や当時の時代背景が大きくかかわっているようです。

 

江戸時代では幕府の許可を得ずにお城の建物などを勝手に修理したりすると領地を取り上げられました。

1619年福島正則が無断で城を修理したため、広島藩49.8万石から高井野藩(信濃高井郡2万石 越後魚沼郡2.5万石の合わせて4.5万石)へと減封の上移封となりました。

軍事施設としての城の増改築はお家取りつぶしにもつながるため、黒田家をはじめとする外様大名は幕府に対して非常に気を使ったとのこと。

 

また戦国時代が終わりをむかえ、徳川幕府の世が安定期に入ると、幕府は全国の諸大名に命じ大阪城や名古屋城など天下普請が盛んに行われるようになり、藩の財政は苦しくなる一方でした。

1638年島原の乱の功績に対して「天守閣などを建設(再建)されたいときもあるだろうから、そのときは将軍様のご意向を得られるが良い・・・」と、幕府からの申し出が書かれた古文書も見つかりましたが、再建された事実はありません。

 

このように、天守閣の存在は謎ですが、城内には櫓や門など多くの建物がありました。

しかしながら、現在残っている建物はほとんどありません。どうしてなのか?

答えは次回の「お城の建物は戦争で焼けたの?」で!